携帯電話無用論ではないけれど・・・
昨日、『公衆電話が消えていく』の記事に対して、塾仲間である個別指導学び舎の小林先生より、賛同のコメントを頂いた。携帯電話無用論を言い続けてきた私にとって勇気をもらうコメントだった。携帯電話がないと生きていけないとまで言う中高生が多い中、塾に於いて孤立無援のかねごんであるが、今一度世の中の皆様、携帯電話というものに慎重になられてはいかがなものだろうか。
学び舎主人です
携帯電話の話、同感です。先日同じようにトラクターに乗って農作業中のおじさんが携帯で談笑していたので、驚きました。「ケータイ文化が現代人に与えた衝撃度は計り知れない。便利さの見返りに品性をなくしてしまった大人が蔓延し、大人の醜い側面だけを見せつけられる青少年達が増えてしまった。」まさにその通りです。講演などを聞きに行って、何が興ざめかというと、やはりいずこからか鳴り響く携帯の着信メロディ。先日、息子の中学校の文化祭に合唱コンクールを聴きに行った時も、携帯電話の電源を切ってくださいというアナウンスがあったにもかかわらず、会場内に鳴り響く携帯電話。ひんしゅくを買っていたのはもちろんですが、あまりの非常識さに唖然としてしまいました。
私塾に勤めていた頃、会社から携帯を持たされていました。メールが普及する前の機種で、まだ携帯をもっている人が少数派の頃の話です。携帯を持っているだけで珍しがられましたが、持っている当人は好きではなく、携帯の番号は自宅と会社しか知らない状態でした。したがって余計な電話も入ってこず、本当に仕事の連絡か家からの緊急の電話だけだったので、人前で携帯電話を出して話さなければならないという場面を出来るだけ回避することが出来ました。
私が嫌だった理由はいくつかありますが、一番大きな理由は公共の空間に私的な空間を持ち込むような違和感があったということです。公衆電話や固定電話で話すということは、そこだけ別空間のような認識があってそこでは許可されるけれど、どこへでも私的空間を持ち込むことには抵抗感がありました。今でも携帯は持っていますしメールにも使います。もっとも家からのメールはほとんど「○○が切れたから途中で買ってきてちょうだい」ぐらいのものですが・・・・。教室ではマナーモードにしていて、かかってきても授業中は出ません。教室にいるときは教室の電話を使うようにしています。
生徒にもできるだけ教室の電話を使っていいと言っているのですが、やはり自分の携帯で連絡をする生徒が多いですね。さすがに教室にいるときはマナーモードにしている生徒がほとんどです。特に注意はしていませんが、他の生徒が「教室に入る前にマナーモードにしておけよな」的視線を一斉に送るので、誰も何も言わなくても次の時からは自分で気をつけるようになるようです。かねごん先生のところと御同様、トイレに行くか階段の所に出てかけています。それはそれで良識をわきまえた行為なのでとやかくとがめだてしませんが、頻繁にトイレにメールをチェックをしに行くようでは勉強どころではないでしょうね。
「本来なら人と人が対面して伝えなければならないことを、便利さに便乗して簡単に済ましていないだろうか。人間のコミニケーションを繋ぐ筈の携帯電話が、逆に人間関係を希薄にしているように思う。」 まったく同感です。こうしてメールで感想を送っていながら言うのも変ですが、対面した上での人間関係がやはり基本だと思います。直接的でなくなればなるほど他者に対して残酷になることができるというのは、遥か彼方の攻撃施設から遠距離弾道弾のボタンを押す人間などの例を考えるとわかりやすいかもしれませんね。おそらく痛みの感触や悲惨な光景の想像は、発射ボタンを押す当人には無いだろうと思います。
北野武が『全思考』という本の中で、「メールどころか、面と向かってどれだけ話したって、分かり合えないことがあるのが人間なのだ。生身と生身でぶつかって、とことんやり合って、それでもわからなきゃ諦めればいい。人間なんて、そう簡単にわかり合えるもんじゃないのだ。面倒くさいことを避けてばかりいると、人間は馬鹿になる。脳味噌を発達させるのは、要するに面倒くさいことなのだ。」と書いています。核心を突いていると思います。
*固有名詞を勝手に編集させていただきました。小林先生貴重なコメントありがとうございます。
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長いコメントの紹介を載せていただき、ありがとうございます。
あらためて画面で見ると、長いですね(笑)。これはとてもコメント欄では入力できないです。今日は、直接コメント欄から書き込みできるようですので、こちらの方に入れてみました。
(かねごん)
本当に長いコメントありがとうございます(・・・笑い)。実は技術的な私の失敗があって、小林先生のコメント文を打ち直したのですが、打ち込んでいて気づいたことがあります。昔国語の指導で筆写というのが一時期はやった時期がありましたが、他人の文章を書くということはいい勉強になりますね。小林先生の句読点の付け方が私の感覚と違うんですよ(もちろんいい意味ですが・・・笑い)なるほどな~と感じたところが多くありましたね。
今後気に入った方の文章をただ貼り付けるのではなくて、打ってみるのも良いかもしれないと感じた経験でした。
投稿: 学び舎主人 | 2008年11月13日 (木) 09時47分
すばやい対応ありがとうございます。
「他人の文章を書くということはいい勉強になりますね。」というのはその通りですね。昔の歴史史料などでも、図書館の持ち出し禁止の文献だと書き写してくるしかないので(あ、今はコピーもできますね、そういえば)、書き写していると、ただ読んでいたときには分からなかった意味が浮かんでくるときがあります。
句読点、特に読点のつけ方は息継ぎの仕方みたいに個性が出てきやすいところではないでしょうか。「日本語とテンの打ち方」(岡崎洋三、晩聲社)なんて本も読みましたが、未だに読点の打ち方は分からなくなって迷います。
そういえば、句点をつけるのが普通になったのは、それほど古くないようですね。一般化したのが明治以降で、現行のような句読法が行われるようになったのは、昭和以降のことらしいです。
(かねごん)
私が帰ってきましたら、家内がなおしていてくれました。最近はどうも妻の検閲が厳しく文章のゆるみかげんを楽しんでいられなくなってきました(笑い)。本当に今回はすばらしいコメントを頂きありがとうございました。
投稿: 学び舎主人 | 2008年11月14日 (金) 09時43分