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2008年10月

2008年10月31日 (金)

人事ではない

厚生労働省は30日、国民健康保険(国保)の保険料を滞納したために保険証に代わる「資格証明書」を交付された世帯が全国で約33万世帯に上り、この中で中学生以下の子どもが約3万3000人いるとの調査結果を発表した。資格証明書では、医療機関の窓口で医療費全額をいったん自己負担しなければならないことから、子どもが必要な医療を受けられなくなる恐れがある。

 同省は児童福祉などの観点から、緊急の場合には短期間有効な保険証を交付するよう、同日付で自治体に通知した。    時事通信社 平成20年10月31日

ブログで何度か書いてきたが、全国的に経済格差が広がり、特に地方の地場産業は疲労困憊している。我が家も自営業ゆえ国民健康保険であるが、国民年金と健康保険、そして固定資産税、所得税を払うと全然預金や娯楽費にはお金が回らない。

万が一私が倒れてしまうと我が家は万事休すである。我が家も病人が一人でも出ようものなら、国民健康保険や国民年金のお金などは捻出できなくなってしまう。上記の記事は人事ではない。

子ども達の医療費、特に未就学児童の医療費を、国が全額負担するシステムを早急に実施してもらいたい。小さなお子さんをお持ちの若い親御さん方は経済的にも大変であり、共働きを余儀なくされている。子育てさえままならぬ状況である。安心して子どもが生める国作りの一歩として、子どもの医療費完全無料化はぜひやってもらいたい。

そういった福祉にお金が使われるのならば消費税値上げもやむなしだと思うが、日本の赤字国債の埋め合わせとしての消費税値上げなら私は断固反対だ。

宗教法人の税金の見直しや、医師の特別控除、ネット取引における課税対策の無法地帯など、税収の抜本見直しは、数限りなくある。取れやすいところから税金を搾取するのは、奈良時代の班田収授法以来なんら変わってはいない。

滞納がなぜ起こっているのかその解決策が急務である。

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私が学んだこと

自分の昔話で恐縮であるが、かつて公立高校の受験を失敗して私立高校に籍を置き、隠れ浪人をしていたことがある。昭和40年代の昔々の話である。

中学校時代は、部活と音楽に明け暮れていた青春時代だった。学校は嫌いじゃなかったが、勉強は好きではなかった。今風に言えばヤンキー的存在に近かった気がする。反抗精神丸出しの、自分で言うのもなんだが、おおばか野郎だった。

中学二年生の三学期に、学校の色弱検査に引っかかった。今でもそうだが、空の曇り加減によっては黒ペンと赤ペンの色の区別がつかない。教室でも赤ペンで丸付けをしているつもりが、黒ペンで丸付けをしている時がある。

工業系の学校を受験できないことを知ってから、やけのやんぱちになり、「普通高校などどこでもいいや」などとうそぶいて、受験生らしい勉強をしなかった(まったくの言い訳でしかないが・・)。公立高校第一志望校は見事不合格、家庭の事情で私立高校を受験していなかったが、二次募集で何とか救ってもらった。

私が入った高校は、一昨日から話題になっている神奈川県の神田高校どころではなかった。荒れ方は本当にひどかった。今でこそ全国的にも有名な高校になったが、当時は学校経営が困窮しており、校内に学校経営サイドと先生方の罵声が飛び交うこともしばしば、授業するはずの先生は、小説本や新聞を片手にやってきて、「今日も自習だ、給料が出ないのにやってられるか」などと言う始末で、私が入った頃は大変な時期だった。

お陰でこちらは隠れ浪人だったので、かってに勉強が出来て助かったのであるが、今思うと、教育の場として機能していなかったし、まったく高校の教科書が進まない状態が日常化すると、だれもがばんの中に教科書など持ってこなくなってしまっており、凄まじかった。

今思うに私がこうやって塾教師を始め、四分の一世紀も塾教師を続けてこれたのは自分が入った高校のお陰だと実は感謝している。高校名を言っただけで「なんだ~」という態度をしょっちゅうとられたことや、進学校に通う当時の同級生から哀れみと言うか、気の毒的な視線を浴びたことで、ちょっと大げさかも知れないが、世の中の縮図みたいなものを十五歳にして垣間見たような気がした。

そしてその十五歳の時に得た感性みたいなものが、現在多くの塾生が私に共感してくれる何かじゃないかと思っている。

二度、退学届けを提出したが、担任の猛烈な説得にあい、こんなおもろい学校で青春を過ごすのもいいかな~と思ったのかどうかは、遠い過去のことで忘れてしまったが、結局三年間在籍し無事(?)卒業してしまった。

毎年、「かねごん先生はよく全教科指導が出来ますね」と褒められるが(・・・笑い)、実は一年間私立高校で死に物狂いで高校の受験勉強をしたことが今に生かされているのである。万事塞翁が馬と言うところだろうか・・・・。

差別無き社会が理想であることは言うまでもないが、自分の弱さを隠すためや、また自分の社会的ポジションを守るためとか、地位を確立したいとか、そういった目線の先に、弱者を作ってしまう力が働いてしまうのだろう。

精神的加害者が被害者になったり犠牲者になってしまうことが、人生に置いてしばしばある。学歴や経済力で人を蔑(さげす)むことはやめた方がいい。私は、私の人生でこのことを深く学んだ。

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2008年10月30日 (木)

校長が更迭された?

私がいつもお世話になっているとよ爺先生は、昨日『面接で不合格』で記事にした神田高校がある神奈川県平塚市にお住まいである。先生のブログhttp://toyojie.jugem.jp/にて詳しい高校の状況が述べられており、私も高校の実状が理解できたのであるが、校長先生が事実上更迭されてしまう事態に至っては、教育の今後を懸念せざるを得ない。

昨日の私の記事に対しては、いつもの倍ほどのアクセスを頂いた。また多くのトラックバックにて、今回の神田高校に関する私見を頂いた。私のブログの検索フレーズランキングも神田高校がダントツ一位である。テレビ報道も目白押しである。

「先生方の指導の負担を減らしたかった。まじめな生徒をとりたかった」報道を通じて伝えられた校長先生の発言であるが、ごく当たり前の校長としての心情ではないだろうか。教科指導がままならない生徒が増えれば、周りの生徒にも迷惑がかかる。

外見で判断をするのはいかがなものかとの意見が多いが、皆さんは始めて出会った方をどこで判断するのだろうか?ましてや問題校といわれている高校の面接である。世の中の世論が私はおかしいような気がする。

入試面接でまともな格好が出来ない生徒が、日常の学校生活でまともな態度をとれるとは思わない。そして入試でそんな格好を許した親が、子どもの日常の指導が出来るとは思わない。世の中が甘くないということを、子ども達に知らしめる意味でも、面接における不合格は妥当な判断だったと私は思う。

しいて言うならば、面接で落とした生徒の人数分を、点数では届かなくとも、挨拶や身だしなみ、受け答えの態度がすばらしい生徒を救済する入試であれば、学校も生徒も救われるような気がする。

私の市内でも進学校の生徒だから、そうじゃない生徒だからという差別が歴然として存在する。15の春に選別されてしまった悔しさややるせなさを、乱れた服装や態度で誤魔化すことは、気持ちは分かるが、そんなことで自分を偽ってはいけない。

私なども農作業をしたままの服装で、塾に向かうことがある輩ゆえ、身だしなみ云々を堂々と言える立場ではないが、やはり15歳の純朴さ清潔さは大事だな・・・・・・。

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2008年10月29日 (水)

子ども達のプライド

現在進行形で言えば、中学生は間違いなく子どもである。そして子どもであるゆえに、彼らの能力はテストの点数であったり、部活での活躍ぶりであるとか、素直であるとか、そういったところで人物評価をされるのである。

家に帰っておじいちゃんの話し相手になってあげているとか、隣の孤独な猫を可愛がっているとかは、残念ながら評価の対象にはならないのである。

子ども達は些細なことでそれぞれが頑張っている。そしてそのことにプライドを持っている。些細なことと言っては失礼だけれども、大人が気づかない多くの次元で子ども達は頑張っていたりするのだ。

新しく購入したゲームの攻略法を誰よりもいち早く見つけたとか、思い続けていた彼女に、恋心を通じさせることが出来たとか、彼らなりに頑張っている世界が存在する。そういったことは受験勉強などに関係ないと見なされ、抹殺されることはあっても、決して奨励されることはない。そして彼ら彼女らの心はとても傷つくのだ。

人生に置いて無駄なことは何もない。たとえ勉強から逃れる口実であっても、子ども達が夢中になっていることには何がしかの価値がある。私などここまで生きてきて、部活や音楽や、友人との付き合いが、どれほど生きる支えになってきたか、計り知れない。

受験勉強で得るものだけが、尊い経験ではない。多くが糧である。

私はいつも塾生に言うことがある。「君達が大人になって大切なのは生きる力だ。眠いのを我慢して与えられた仕事をやり遂げる根性や、顔を見るのもいやな人間と酒の席を一緒にしなければならない精神力、頭を下げる勇気、その基本体力を鍛えるのが今だ」と。

自分達が好きで一生懸命やっていることを、否定されること、プライドを傷つけられることも、実は立派な大人になるためのトレーニングだと私は思っている。だから恐れてはいけない。

好きなことをやったら、嫌いなこともやってみる。心が落ちつくと思う。

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面接で不合格

神奈川県立神田高校で、総点で合格点に達していたにもかかわらず、面接で不合格になっていた生徒が二年間にわたり22名いたということが報じられた。

テレビの報道等では様々な意見が出されていたが、私は面接が何のために行われるのかを考えれば、筆記試験や通信簿の点数がたとえ合格点に達していても、服装や態度がひどければ、不合格になっても仕方がないものだと考える。

服装や爪の長さや、髪の色ならいつでも指導で変えさせられるのだから、不合格にしなくともという意見も出ていたようだが、中学三年生である彼等は、高校入試の面接というものが、どのような意図を持っているのかを理解できる年齢だろうし、もちろん中学校の指導もあったはずである。高校側が槍玉に挙げられる問題であろうか。

私の市内では、髪が染めてあるあるだけで、確実に不合格である。過去に置いては、入試の日に、彼氏と手をつないで校門を入っていったところをチェックされ不合格にされた生徒がいた。私立だから公立だからという区別は関係ないと思う。

入試は言わば人生をかけた晴れの舞台である。高校のレベル云々の問題ではなく、これまで育ててくれた親への感謝とか、家族に対する思い、学校でお世話になった先生に対する思い、そういったものが凝縮した一日であると私は思っている。塾生にも毎年言い続けてきたが、そんな日に、いい加減な服装や態度で入試に臨むことはあってはいけない。

今回の論調で気になったことは、私立ならいざ知らず公立では・・・・という意見が聞かれたが、私立高校とていまや県や国の助成金なしではやっていけない時代である。今回の神田高校の報道を契機にし、入試面接の重要性というものを、受験生や親御さんにはぜひ考えていただきたいと思う。

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2008年10月28日 (火)

塾教師のタイプ

人間と云う者はそもそも欲深い存在であるわけで、会社を立ちあげたり、個人事業主になる者は、一儲けしようという野心が少なからずあるものだ。どうしても人間のサガみたいなもで致し方ない。私などもそのたぐいである。

組織の中で本領を発揮するタイプの人間と、社長業などトップに立つことできらめきを増すタイプの人間がいる。それぞれがどのタイプの人間であるのかは、おのずと自分自身が知っているものである。

我々塾教師にもおのずと様々なタイプが存在する。ひたすら教えることが好きでたまらない、純な先生タイプ。本来は学校の先生タイプなのだが、様々な理由で塾教師をしている。自分の勤めている塾の生徒がどれほどの月謝を払っているかとか、塾の利益率がどうとかということにはまったく無頓着で、瞳を輝かせて指導に専念するタイプの先生だ。

雇う側としては楽と言えば楽であるが、生徒募集にもあまり関心を示さず、生徒からは慕われる先生であるが、経営者サイドからすればちょっと頼りない先生ではある。

このタイプとまったく真逆の方向に存在するタイプの塾教師がいる。生徒をお客さんと見なし、いかに世の中のニーズに合わせ集客率を上げるかを常に念頭に入れ、宣伝と指導の両輪をうまくこなす先生だ。

塾にとってもたいへん頼りになる先生だが、この手の先生は独立を目指す者が多く、いずれ去っていくタイプである。

そして三つ目のタイプ。唯我独尊、世の中がどう騒ごうが、ざわめこうが、自分の指導スタイルを崩さず、教室にパソコンどころかコピー機さえも置かず、生徒の成績順位に一喜一憂することもなく、ひたすら入試に必要な項目を教え続けるガンコ爺タイプである。どの町にも必ず一軒か二軒はこのタイプの塾があり、塾長が存在する。

実は私かねごんも、このガンコ爺タイプの先生にあこがれて塾を始めたのであるが、現実は厳しかった。しまいには塾ブログまでしたためて、姑息にも営業戦略に利用する始末で、唯我独尊の境地には程遠い。

まあ霞を食べて生きて行くわけにはいかず、家に帰れば腹をすかせてピーチクパーチク餌を求める雛鳥のごとく、食べ盛りの息子達が待っている。家族を養うために頑張らなければならないわけで、時に純真な指導者でありつつ、経営者として収益も考えつつ、ガンコでもなければならず、そしてなおかつ父親の役割と、夫としての勤めと、数々の地域でのボランティアの仕事が待っているのである。

塾教師のタイプをしたためるはずが、最後はいつものぼやきになってしまった。お許し願いたい。

地域の皆様、こんなかねごん塾でありますが、今後ともよろしくお願いいたします。

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2008年10月27日 (月)

中学時代

今年の文化祭はプライベートな用件や仕事が重なって、どこの学校の文化祭にも行かずじまいだった。塾教師をやっていてこんな年も珍しい。地域のさまざまな行事が目白押しで、本当に多忙な日曜日が続いている。

今現在私の末の子が通っている中学校は、築3年の木造の新校舎である。床や壁に木がふんだんに使われていて、夏は涼しく冬は暖かい。

私と長男は同じ中学校の校舎に通った。長男には学校の建物がどのように感じたか詳しく聞かなかったが、私はコンクリートの校舎の冷たい感触が好きになれず、校舎にあまりいい思いではない。昭和40年代にはやったコンクリートの校舎は、最低半世紀はもつとの下馬評だったが、2度の大きな地震でひび割れが激しくなり、40年の寿命だった。今は跡形もなくなり、新中学校の校庭になっている。

中学時代、私は本当に生意気な生徒だった。ろくに勉強もせず、口先だけは達者で、先生に反抗することだけは積極的で、先生たちにとっては厄介な生徒だったと思う。

3年間生徒会の執行部をやった。勉強は出来ずとも悪友(悪ガキ仲間)の信望はちょっとはあったようで、選挙となるとなるとなぜか推薦され、当選を果たした。生徒会ではやりたい放題だった。塾では中学生諸君に私の武勇伝を話すのであるが、ブログでは検閲に引っかかりそうなのでやめておく(・・・笑い)。

中学校創設以来始めて、文化祭で執行部主宰のロックコンサートをやった。自分がやりたかったと言うのが一番の理由だったのだが、700名の全校生徒の前でギターを抱えて歌をうたう快感を文化祭で経験してしまった私は、以来30年以上人前で歌うことが病みつきになってしまっている。困ったものだ・・・・・。

今の中学生達を見ていて、我々の中学時代と一番違うなと思うことは、生徒達が教師や大人の前で、堂々と自分の意見を言わなくなったことだ。心の中では常に言いたいことがあるのに正面きって言わないのである。ストレスが溜まるだろうなと思う。

事なかれ主義というわけではなさそうだ。なぜなら陰ではかなり辛らつなことを言うし、態度にも表す。自分に自信がないのかも知れない。根性論や大人の苦労話には耳を傾けるが、次元の違う御伽噺(おとぎばなし)を聞いているような反応である。

少々幼稚でも、少々的外れでもいいから、自分の言いたいことが合ったら面と向かって話をする態度が今の中学生には必要じゃないかと思う。「しょうがないな~」という声を多く聞く。間違っていると思うことに、はっきり「NO」と言う勇気と根性を持って欲しい。私の願望である。

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2008年10月26日 (日)

文章の達人とは・・・

カウント・ベイシー・オーケストラの公演を聴きにいったのはたった一度しかありません。最後の来日になった年だったと思います。宮城県民会館での公演でした。ベイシーは電動車イスに乗ってステージに現れ、体調があまり思わしくないのかと痛々しかったのですが、一方で三輪車に乗ったいたずらな子どものようにも見え、なんだかとぼけた味がありました。ピアノの前に座るとポロン、ポロンとごくわずかな音しか出さなかったのですが紛れもなくカウント・ベイシーの音でした。その時もすごいもんだなあと思ったものです。余計なものを全部そぎ落とした俳句みたいな演奏なのにやっぱりカウント・ベイシーなのです。一音、一音がカウント・ベイシーその人のすべてを表していて、他のだれともまちがえようのない世界をそこで聴かせてくれました。

何を語るかではなく、何を語らないか。簡にして潔。いつもダラダラと無駄なおしゃべりが多い私は、教えすぎないことを自分に言い聞かせているのですが、ダメです。カウント・ベイシーのようにほんの二言、三言ですっと理解できるような教え方ができれば本望なのですが。道はまだまだ遠いなあ。

25年来の私の塾仲間でありジャズ友の『学び舎主人』の昨日のブログ抜粋ですhttp://k-manabiya.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3450.html。多忙なご主人は、私のよな駄文を日々連ねることはないのですが、文才にたけ、塾ブログでありながら、塾の様子や出来事をほとんどしたためない仙人的塾ブローガーであります。

同県人であり,志を同じくする同業者であります。奥州市で私塾をやられておるのですが、もし彼のような切れ者が近くで塾をしていたら、私などとてもとても太刀打ち出来ないツワモノでして、彼が遠いところで塾をやっていることに感謝するしだいです(・・・笑い)。

私はでしゃばりやの出たがりやなモノですから、謙遜というものを知らず、どこかから仕入れてきた知識を、まるで自分のオリジナルのごとく吹聴してしまう輩なのですが、学び舎主人は、冷静沈着、質実剛健、博識鮮明なる頭脳と感性をお持ちで、いつも我儘な私の相談や悩みに付き合ってくれる先輩でして、心より尊敬する頭脳人の一人であります。

そんな彼が語る文学の話や音楽の話は、まさに学び舎主人の真骨頂でして、上記のカント・ベーシーの宮城県民会館での描写一つとっても、凡人の私はただただ「なるほどな~」とうなる文章であるわけで、県民会館でのベーシーが目の前に見えてきそうです。文章の達人というものはまさに、感情の揺れがなく、的確に対象物を表記する力の持ち主であり、学びや主人は、まさにその達人だと思うかねごんです。

私も主人の文章力に一歩でも近づきたいと思うこの頃である。

(追伸)

一関市立桜町中学校合唱部が、本日10月26日に香川県高松市行われた第61回全日本合唱コンクール全国大会中学校部門混声合唱の部で金賞を受賞した。全国大会5回目にして初の快挙である。

我が塾生も4名が合唱部員として参加した。心よりおめでとうを言いたい。

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超happyな話題

塾が始まって以来のhappyな話題である。「私たち結婚しました」という結婚報告の写真葉書が塾に届いた。

中学生の時に通っていたY君とHさん両人の、教会での満面の笑みである。私の塾が縁で、高校生になって二人が交際しているという話を風の噂で聞いていたが、11年の歳月を経て結婚にゴールインした二人の報告であった。

卒塾生のお子さんが初めて塾に入ってきたときも、感極まったが、今回の出来事も感動の嵐だった。昨日のブログにも書いたが、彼らが通っていた頃は、一部屋だけの塾だった。授業の始まりを寒い冬の日でも、外で待たなければならず、とても不便をかけた子ども達である。

「近いうちに遊びに寄らせていただきます」という文面だったが、二人の人生の縁を取り持つことが出来た嬉しさに、心の中をさわやかな一陣の風が吹いていった。手塩にかけて指導してきた塾生が、学校に合格した時の喜びとはまた違った喜びであった。

我が塾の社長兼、経理部長である私の家内は、しばらく二人の写真を見つめていたが、一言「いいね~」としんみり言葉を漏らしたが、いったい何を思い出していたのだろう・・・(笑い)。

26歳の二人の門出を心からお祝い申し上げる。Y君、Yさん本当におめでとう。!

ちなみにお子さんが誕生しましたら、ぜひ『風と虹の教室』へどうぞ。お待ち申しあげています。

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2008年10月25日 (土)

ハチャメチャさが止まらない

1991年の春、私は今の塾を始めた。結婚して4年目を迎えた妻と、一歳になったばかりの長男、80歳を迎えた祖母と、そして夫を亡くしたばかりの52歳の私の母がいた。

私の人生の選択肢に、家族の命運がかかっていた。30前の男にとって、一世一代の賭けだった。ダメだったら日雇いでも何でもやって家族を養って行こう、そんな気構えだけはあったような気がする。

ガレージを改築した一部屋だけの教室、自分で壁のペンキを塗り、屋根を修理し、スタートした塾だった。ガレージゆえトイレもなく、大家さんの外トイレを借りた。そんな船出だった。

農家の長男ゆえ、祖父や父が残してくれた田んぼや農地は人並みにあった。最初は休耕することなく耕していたが、機械が老朽化し壊れていった。乗用の大型機械を買うとなると、家を一軒建てるほどのお金がかかる。自分の家で食べる分と、ほんの少し国に供出する糧だけにし、後は全部休耕田にすることにした。

天国の祖父や父が残念がっているかも知れないが、仕方がない。手作業の農業はしんどいと言えばしんどいが、収穫の喜びをかみしめながら汗をかく気持ち良さは格別なものがある。

一年目、12名の生徒でスタートした塾も7年後には100名の生徒数に達していた。自習室もない教室ゆえ、寒い冬の日でも前の授業が終わるまで、生徒を外で待たせておかなければならなかった。そんな環境にもかかわらず当時通って来てくれた生徒達には、今でも心から感謝している。

私の若さゆえ、講師の先生との食い違いもあり、苦悩した日々もあった。突然塾生が集まらない年があり、金策に走り回った年もあった。

今こうして自習室でジャズを聞きながら、ブログの下原稿を書いている自分が、幸せだなと感じるこの頃である。20年近く塾を続けさせてもらってきたことに、本当に感謝で一杯である。

私どもの塾の教育理念に賛同していただき、塾にお子様を預けてくださる保護者の皆様がいて、はじめて塾は塾として成り立っている。

塾生のテスト順位を上げることも、合格率をあげることも、もちろん塾の大きな役割である。しかしそれだけならば、パソコンによる通信ネットワークの指導や、大手の通信添削指導などで事足りるはずである。

私が目指すものは、心のふれあいであり、感情の共有である。子ども達がぶつかる孤独感や、せつなさ、やるせなさ、そういった感情を共有してあげ、日々励まし、声をかけてあげ、一緒に考えてあげることが我々塾の大切な仕事だと私は思っている。

教育は優しさがなくてはならない。当たり前のことだが、それが今欠けているような気がしてならない。20代で塾を始めた私も、あと少しで50代に突入する。

年を取ったなりの指導というものがあるのだろうが、ハチャメチャさは昔と全然変わらない。タメ口の生徒と、日々吉本興業バリのお笑いを展開している私を、塾生は時にあきれた顔で見ているが、こんなオヤジがいてもいいかと、私は悟りの境地である・・・・・・。

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2008年10月24日 (金)

今日は塾教師の本音を一つ

11月に受験生の塾移動が多くある。成績が思わしくないので塾を替えるとか、このままでは受験が心配だからと、成績が上がった友達の通っている塾に替えるという生徒も多い。

文化祭も終わり、受験勉強も最終段階に突入していくわけだが、実際問題として、成績が上がらない受験生にとっては、最後の勝負どころであるわけで、塾の見直しをするのだろう。

毎年2、3人我が塾からも何人か移動していく。そして同じように何人かが他の塾から移ってくる。

結論を言おう。この時期の塾替えはやめたほうが良い。失敗する可能性が多い。理由は簡単だ。先生を信用していないし、自分の責任を他人のせいにしている。どこの塾に行っても伸びないのだ。

私は5年ほど前から、初めての塾通いの生徒はこの時期でもお引き受けしているが、受験生の他の塾からの移動はお断りしてきた。中には他の塾に通っていたことを内緒にして、入ってくる生徒もいるのだが、それはそれで仕方がない。

個人塾にしろフランチャイズ塾にしろ、昨今の厳しい塾環境に置いて、受験指導の看板を掲げている塾が、手抜きの受験指導をしているところはないはずである。各塾生の志望校を念頭に入れた計画的指導をしている。最後の決め球というものを、ベテランの塾教師は持っているものだ。

これから冬期講習を経て、受験の直前までこの生徒に何を与えればいいのか、何を言うべきか、それはその生徒の個性や家庭環境、友人関係、癖、そういったものを考慮し出来ることだ。1年間なり、半年なりの指導があって可能になることである。

中学三年生が塾を替えるリミットは、夏休み明けのテスト結果後ぐらいが限界ではないだろうか。塾に入るときは、その塾の評判なり魅力なりを感じて入ったに違いない。塾の先生の人柄なり、言動に問題がないのならば、信頼し最後まで頼ったほうがいいと私は思う。

塾の先生とて人間である(当たり前のことだが・・・)。手塩にかけて指導してきた生徒が受験直前で他の塾に移っていったら、彼、彼女に対する思いは、『合格に向けて頑張れよ』とはならないような気がする。きっと裏切られた気持ちになるんじゃないんだろうか。私は実はそこが問題だと思っている。

相手に負の思いを抱かせることは、受験生にとってやはり微妙な影響が出るような気がしてしょうがない。

私もそうであるが、塾の先生は毎年受験指導をしているがゆえに、神社に行って合格を祈願したり、お寺に行って護摩をたいたり、信じん深い方が多い。そのような目に見えない支援までもないがしろにするような、入試直前の塾替えは、やめた方が良いと思う。

一斉授業の教室に通っていた生徒が、完全個別指導や家庭教師に切り替えるというのならまだしも、似たような形態の塾を、半年ごとに替える生徒を見かけるが(このような生徒を私は塾ワンダラーと読んでいるが)、問題のすり替えをしているだけで、成績の改善にはならないはずである。

そういうことで、塾生が、「○○ちゃんが△□塾から、かねごん先生のところに来たいって」というありがたいお言葉を頂くが、中3生の他塾からの入塾はこの時期、お断りしている。ご理解いただきたい。

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2008年10月23日 (木)

平成21年度高校入試選抜実施要項発表

21年度岩手県高校入学者選抜実施要項が発表になった。出願は推薦が来年1月8日から、一般入試の願書受付は2月4日からである。複数学科を持つ高校に置いては、第3志望まで出願できるが、適性検査受験(2次募集を含む)は2回までとなる。

今回大きく変わったところでは、これまで体育、芸術系学科の推薦枠が20パーセント以内とされていたのが、50パーセントに拡大される。これによって、盛岡南の普通化体育コースと体育科、不来方(こずかた)の普通科芸術学系と体育学系、花巻南のスポーツ健康科学が50パーセントの推薦枠となる。

また県南では、新・岩谷堂高校が開校するほか、杜稜高奥州高の新設に伴い黒沢尻産業科と水沢商業科の定時制が募集を停止する。

一関市内の県立高校の定員は次の通りである。一関一(240名)、一関二(240名)、一関工業、電気(40名)電子(40名)電子機械(40名)土木(40名)、花泉(80名)、大東、普通(120名)情報(40名)、千厩、普通(160名)生産技術(40名)産業技術(40名)である。

入試日は推薦が1月28日。一般は3月10日。合否の発表は推薦が2月3日に通知書を送付、一般入試の合格発表は3月17日である。

入試要項の発表がなされ、今週に行われる各中学校の文化祭が終わると、3年生はいよいよ受験モードがトップギアーにチェンジである。疾走することなく、目標を見失わず頑張って欲しい。

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日本語は難しい

10月21日17時26分配信 時事通信

 常用漢字表の見直しを進めている文化審議会漢字小委員会は21日、字種の追加候補191字の読み、用例の原案を固めた。併せて、現行の常用漢字の一部で音訓を修正することを決めた。例えば「混」には、「こむ」という訓読みと「人混み」「混み合う」の用例を追加する。
 現行表には「混(こ)む」の読みは載っていないため、「込む」「人込み」と表記されてきた。しかし、混雑という熟語があることなどから、これらの用例では混を優先させる。 「人込み」の用例については「込」の欄から削除するが、これまで認めてきた経緯を踏まえ、混の欄で注記扱いで紹介する。また、「私」の訓として、現行の「わたくし」だけでなく「わたし」も併記。「要」の訓には「かなめ」を追加する。同小委は漢字の字体なども検討した上で、来年2月ごろ、新常用漢字表の試案をまとめる。 

先日ブログを書いていて非常に迷った表現があった。『教室が込んでいた』、なのか『教室が混んでいた』なのか、しばし思案に暮れていた。作文指導や論文指導を生業(なりわい)としているてまえ、あいまいな表記は避けなければと思いつつ、自動変換の罠にはまることもしばしば、時に塾生より誤用の指摘をされる始末で、面目ないかねごんである。

『教室が~』の表現に関して、慣例的にはどちらもOKなのだが、どうにもすっきりせず何か喉に異物がつまった感じがしていた。上の時事通信の記事を見て、やや気持ちがすっきりしたというか、日本語の難しさを実感したしだいである。

言葉は時代と共に変遷するものである。例えば『ぜったい』などの副詞も、現代では「ぜったい行く」などのように肯定文で使われることが多くなったが、私たちが子どもの頃は、間違いなく否定の副詞だった。「ぜったい行かない」などのように使っていたものだ。

何でも『い』をつけて形容詞化してしまう表現も増えている。きもい、うざいなど、若者言葉が社会的に市民権を得て、日常会話で使用されている。さすがに作文や、論文の中で用いる生徒はいないが、ひょっとしたらいつの日か「うざい私の親が・・・」などという作文をしたためる生徒が出現するのだろうか。

少し心配ではある・・・・・。

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2008年10月22日 (水)

環境への順応

高校の頃だったろうか、地学の本を読んでいて世界の最高峰ヒマラヤ山脈が、インド大陸が中世代後期ユーラシア大陸に衝突し隆起してできた山脈であることを知って驚愕したものだ。ゆえにエベレストの山頂はかつて海の底であり、エベレストの山頂からは貝や魚の化石が発見される。

大陸がぶつかり隆起して誕生した山脈が、中学校の地理で学ぶアルプス・ヒマラヤ造山帯である。もう一方の造山帯が、環太平洋造山帯で、噴火によって形成された山脈である。アメリカのロッキー山脈や南米のアンデス山脈、そしてわが国日本の山脈が含まれる。

8千メートルに及ぶヒマラヤの壁が、インドに熱風を巻き起こす。逆に熱帯の風が完全に遮られるモンゴル平原は、極寒の冬が襲う。そのためモンゴルに平原に生息する白鳥や水鳥たちは、何千キロにも及ぶ空を旅し、暖かい冬を過ごすために日本に飛来する。

私の塾があるすぐそばを、磐井川が流れている。毎年多くの白鳥が飛来し、一関市民の目を楽しませている。ヒマラヤ山脈がなかったならば、日本に住んでいて白鳥の姿を見ることはなかったかも知れない。

猛烈な地球の変化に、地球上の生き物達は我々人間も含め、実にすばらしい対応をし生きながらえてきた。恐竜のように、隕石の衝突というアクシデントで滅亡した種もいるが、生物としての生存の危機を乗り越えてきたエネルギーはすばらしい。

そういう意味では、100万年前に誕生した我々人類の祖先が、今日に至る過程は気の遠くなるような生存のためのサバイバルがあったはずである。石斧を手にした人類が、パソコンを打つ現代人に至るまでの、多くの犠牲と、多くの汗と、多くの涙と、そして多くの命のバトンタッチを思うとき、私は本当に人間の尊厳を考えずにはいられない。

人間が生きながらえてきた最大の武器は学びであると思う。共栄共存を考える学びが、人類の危機を何度も何度も救ってきたはずである。

教育の理念や価値観が揺らぐ現代社会に置いて、子ども達に絶対学んで欲しいもの、それは、君達の命をここに繋いでくるために、何百億、何千億の命が、地球上で頑張ってきたという事実である。

ここで人類が私たちが歩みを止めるわけにはいかない。それは過去に対する尊敬の念でもあり、未来に存在する人類のためでもある。

地球規模の視点で生きることを考えることは、二次関数のグラフを考えることや、水の電気分解の化学式を覚えることと、それほど次元は変わりがない、それだけ身近なことだと私は考える。

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2008年10月21日 (火)

永遠の旅人

水を求めて、数十キロもアフリカの大地を移動する像の群れを見たことがあるだろうか。そこにしか命を繋ぐ水がないことを知っている像たちは、自分の命を生き続けるために途方もない旅を続け、歩み続ける。

少年達よ君達も同じだ。命を繋いでいくために、時として危険な旅に出なければならない。

親の庇護は安らかで居心地がいいだろう。しかし温かいミルクと暖かいベットがいつまでも用意され続けることはないのだ。

やがて命あるすべてのものは、老いて朽ち果てていく。君達には永遠に思えるかも知れないこの時代が、実は一瞬のきらめきであることを知っているだろうか。君達が大人になって今の時代を振り返った時に、自分達が途方もない可能性の中に生きていたことにきっと気づくだろう。

君達の何人かは、それをいとおしく振り返り、また幾人かは歯軋りをするような思いで振りかえるかも知れない。

水を求めて移動する像たちの中には、群れをはぐれ道に迷ってしまうものがいる。それは時として命を失うことを意味する。

多くの人間がなぜ皆、学ぶために学校に行き、そして仕事に就くのか、それは生きるためだ。言葉を変えるならば輝くためだ。もしそのことを拒絶して生きて行こうと思うなら、生きて行く道はとても険しい。

人生は楽しむべきだ。でも我々人間は神様のように完璧な存在じゃない。だから多くの矛盾を抱え生きている。

人生を楽しむための学びが死にたいほどつらいときがあったり、愛することの切なさが苦しみの種になったりするのだ。

普通に学校に通える国に生まれたことに感謝し、いつもご飯を食べられることに感謝し、そして塾に通わせてもらっていることに感謝してみよう。君達を導く人生のナビゲーターが、きっと水を得た魚のようにいきいきと君達を幸運に導くだろう。

人生の中の一瞬は、当たり前のことだけれどただ一度きりの一瞬だ。二度と戻ってくることはない。純朴に自分の気持ち(ハート)に耳を傾けてみるといい、君の本音が聞こえてくるはずだ。

君達はアフリカの大地を旅する像の群れを見たことがあるだろうか。水を得て、草を食べ尽くすと、また命を繋ぐために長い旅が始まる。

そしてまた我々人間も永遠の旅人である。

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2008年10月20日 (月)

親の気持ち

当然のことであるが、親御さんは自分の子どもが可愛い。なんとか一人前に育てようと必死である。小さい頃から、トイレの躾から、箸の持ち方から、歯の磨き方まで、子どもは日々親から教えられ生きるすべを学んでいく。

靴が自分ではけるようになったと言っては喜び、服を自分で着られるようになったと言っては喜び、子どもの日々の成長を糧とし親御さんも頑張って生きていくのである。

生まれてくる前は、どうか五体満足に生まれてきますように、祈る気持ちである。小学校に上がり、テストプリントをもらってくるようになると、100点を取ってきたと言っては夫婦で喜び、運動会で負けたと言っては夫婦で残念がる。そんなふうにして子育てが進んでいく。

ある日突然、子どもが学校に行きたくないと言う。親は右往左往である。叱ったりなだめたり、懇願したり、何とか学校に行かせようと必死である。

学校の成績がどうの、通信簿がどうのとか云うことはどうでもいい、とにかく普通に学校に行ってくれないか、これが親の心情ではないだろうか。

実は昨日不登校の話をブログで書いたが、我が息子も小学校5年生の時に、10日間ほど登校できないことがあった。塾では今まで多くの不登校の生徒と接してきたし、相談やカンセリングを行ってきたが、自分の息子のこととなると感情がどうしてもフラットになれない自分がいた。

担任の先生の親身な指導のお陰で、長期化することなく復帰したが、ケースによっては、子どもに対する厳格さや、根性論がマイナスになることはあっても、プラスになることがないことを、実感を持って経験させられた私と家内であった。

子は親を思わなくても、子を思わない親はいない。愛情のはずがいつの間にか、その愛情が、世間体だったり、親のプライドなどにスライドしてしまうことがある。時としてそれが憎しみや虐待にまでエスカレートしてしまうのも、愛情の怖さではなかろうか。

楽しく生きていくためのお互いの努力が、忍従や虚脱感を生み出してしまうケースが実に多い。家族の中に笑いと、平安が続くことが何よりの幸せではないかと思う。子どもの入る学校の偏差値や世間の評判に、左右される幸福であってはならない気がする。

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2008年10月19日 (日)

なぜ学校に行かないのか

学校に行かない子ども達が増えている。そしてここ数年ずっと議論がされてきた。心理学の先生や心療内科の先生、現場の先生方の多数の著作、レポート、そして肉声の声が私たちに伝えられてきた。

しかしそれでも減少することもなく、不登校は止まらない。生徒ばかりではなく先生までもが登校拒否をやり始め、全国でその数は2万とも3万とも言われている。

友達にいじめられる。先生が嫌い。クラスの雰囲気に耐えられない。勉強が分からない。疎外される。宿題が多すぎる。さまざまな理由で生徒達は学校に行くことを拒絶する。

「学校が楽しくない」これが学校に行かない最大公約数的理由だ。

なぜ多くの人たちがテレビを見るのか、楽しいからである。なぜ多くの人たちが疲れて大変なのに山に登ろうとするのか、楽しいからである。なぜサラリーマンは毎日居酒屋で酒を飲むのか、楽しいからである。

現代の日本社会は、楽しいことを追求することで、経済を活性化させてきたと言っても過言ではない。ケータイを主体とする通信産業しかり、ゲーム機を創造するIT産業しかりである。株式投資なども、その際たるもので、まさしくマネーゲームである。

なぜ学校に行かないのか。楽しくないからである。私はなぜ塾には来るのか、かつて不登校の生徒達に聞いてみた。「楽しいから来ている」 それが回答だった。

勉強とは楽しく学ぶべきであるという子ども達の常識を、理解していない大人たちがいるということが問題なのであり、子ども達が学校に行きたがらないのは社会病理でもなんでもない。つまらないから行かないのである。問題を難しくしてしまっているのは我々大人たちである。

私は塾教師を四分の一世紀やってきて、やっとこの究極の結論に達した。本箱に堆積された不登校関連の書物達が、私の格闘の過去を物語っている。おもしろければ学校に生徒は行くのだ。

ディズニーランドを見て欲しい、あのレジャー施設がなぜあれほどまでに子ども達を魅了し続けるのか、楽しいからである,わくわくするからである。

うちの塾に入った生徒達は、進路が変更しない限り99.9パーセント塾を辞めない。退塾率がとても低いのは、指導がずば抜けて良いわけでも、月謝がめちゃくちゃ安いわけではない。私は自信を持って言える、楽しい塾だからである。

小さい頃から、不快を経験させられることなく育った子ども達である。布のオシメではなく、紙オムツで育てられ、エアコンの効く部屋の中で遊ばされ、ぐずると子守代わりにアンパンマンのビデオを見せられ、すぐ抱っこされて愛情一杯手塩にかけられて育てられた子ども達である。

それがいけないと誰が言えるだろうか。

親に叩かれた経験がない子ども達が非常に多い。怒鳴る父親も少なくなった。先生だけが根性論をいきまいても、子ども達は聞く耳を持たない。そこが難しい。

楽しくて厳しくて、そして分かりやすく、人情味があり、一人一人の生徒達の面倒見がいい先生じゃないと、指導が出来ない世の中なのである。それが無理だと思ったら教師になるのは難しいな、私は教員志望の教え子達にそんなことを話している。

先生は本当に大変だ。大変だからこそ頑張って欲しい。子ども達のために。

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2008年10月18日 (土)

この世は・・・

この世は、

思った通りになるのだそうで。

思った通りにならないよと

思っている人が、

おもった通りにならなかった場合、

思った通りになっているので、

やっぱりそれは、

思った通りになっているのだそうだ。 by 尾田栄一郎

今日は息子に面白い文章を教えてもらった。ワンピースの作者尾田栄一郎の言葉である。

人は間違いなく思った人間になる。

だから一生懸命、なりたい人間を思えばいい。きっとなれる。

思いは重い、だから天から降りてくる。

There  is  a  will,  there  is  a  way ! みんな、頑張ろうぜ!

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私にとってブログとは

ブログを書き始め一年ちょっとの新参者がしたためるのもおこがましいかもしれないが、塾ブログをはじめとする教育ブログについて、私なりの感想を述べさせていただく。

塾や予備校の宣伝媒体としては、ホームページを凌駕する媒体だと思っている。年間何十万円も支払い、塾名を地域のトップに持ってきているHPがあるが、ブログの場合、記事のヒット数や更新数によりブログ名や塾名をトップに持ってくることは非常にたやすい。書く労力を除けば費用は0円で済む。

広告費がかからないぶん、月謝の低額料金を維持しやすく、当セミナーのような経営理念には合致するものだ。

塾ブロガーの先生の中には、自分の塾の経営に自分のブログを利用したくないとの考えから、一切塾名を公表されない方もおられるが、それはそれで一つの理念であろうと思う。

私などは利用できるものは何でも利用しようという、現世利益タイプの人間なので、ブログ名に自分の塾名を入れてちゃっかり宣伝している。こういった私のようなブログは全体の7割ほどを占めている。2割9分は直接塾名を使ってはいないが、塾のHPにリンクしている。ちなみに塾のHPにリンクもしていなければ、塾の宣伝文を一切掲載していない塾ブログが時々存在する.

教育ブログでも、学校の先生方のブログはほとんどが匿名で、せいぜい中学校教師であるか小学校教師であるかが分かる程度である。学校の先生方には秘匿義務があるので、私のよういに言いたいことを書き連ねるわけにはいかないようであるが、中にはかなり過激なブログもあり、楽しく読ませていただいている。また各学校の校長先生が校長便りという形で、PTA及び在校生に開示しているブログもあるが、含蓄のある話が多く勉強になる。。

もちろんブログにも短所はある。塾長さんや経営者の教育理念を知らしめる効果は大であるが、他の塾に指導ノウハウや経営術を模倣されるケースがある。夏期講習や冬期講習の日程や料金をブログやHPに掲載することで、料金設定を他塾に安くされるなどというケースもあるようだ。自由競争社会なので仕方がないと言えば仕方がない。

私の場合ブログを始めたことによる一番の変化は、保護者の皆さんや塾生との話題が確実に増えたことである。私が農業をしていることや、卓球をやっていることなどが話題となり、塾以外の話題が豊富に共有できるようになったことが大きな変化である。また塾生たちが私のブログに対して塾内で意見や感想を述べてくれるのは、嬉しいことである。

これは多くの塾長さんにもあるのではないかと思うのだけれど、経営者や管理職は孤独な職業でもある。私とてそうである。午後から夜中まで働く時間帯で、通常、堅気のサラリーマンの友人と飲む時間や遊ぶ時間は皆無である。ブログを始めて、いろんな方からメールやコメントをいただくようになり、親戚や兄弟以上に近況のやり取りや、意見交換をさせ頂いている.

全国の先生方やご父兄の方々がら、貴重なコメントや意見をいただけることは、本当にありがたいことである。

ブログは孤独さえも癒してくれる。そして何よりも日頃の自分の思いをつづることで、自分の思考が見えてくる。自分の意識がどこへ向かおうとしているのか、何にこだわっているのか、何に怒っているのか、意外と自分のことを知っていないことがある。

私にとってブログとは自分を映し出す鏡であるようだ。

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2008年10月17日 (金)

感謝するって素敵だよね

感謝の気持ちを持つということは、運命を好転すさせる最大のアイテムだと思う。私は、人間がこの地球上で生きている奇跡をよく考える。太陽が存在する奇跡、星が輝く奇跡、そして空気と水と食べ物がある奇跡、これらの奇跡的な賜物がなくては、私たちは一分とて存在することが出来ない。

私たちがこの母なる大地で生かされていることに、心から感謝をしなければならない。

たまたまこの星に生まれ落ちたわけではない。一人一人が無限とも思われる使命と役割と、そして希望を携えて生まれてきたのだ。私はそう信じている。

あって当然と思っているものが、突然なくなってしまった時、人は多くの大切な存在に気づく。親の存在であったり、健康な身体であったり、友情であったり、そして自分自身の幸福であったり。

私は間違いなく年を取ってきた、生きてきた年月の長さを今後生き続けることはきっとないだろう。息を呑むような美しい夕暮れの光景をあと何度見るだろうか。満点の星空にきらめく流星を何度見上げるだろうか。

そんなことを思うこと自体が、年を取るということなのだろう。久しぶりの休日、車窓から眺めた海の風景や、広大な沼地の上空を舞う水鳥の姿に、ふとそんなことを考えていた。

毎日何気なく過ぎていく日常の中で、人は笑い、泣き、喜び、子どもは成長し、大人は年老いていく。子ども達のざわめきも、お年寄りのつくため息も、地球の大気の中に吸い込まれていく。さまざまな声や、感情の流れを、この地球も聞き取っているのかも知れない。

努力をしているのに、頑張っているのに、なかなか夜明けがやってこない、そんなふうに感じている方がおられたら、単純に生きていることに感謝してみませんか。朝、目が覚めたことに感謝してみませんか。心臓が動いていることに感謝してみませんか。きっと素敵な明日がやってくると思います。

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2008年10月16日 (木)

本年度終了

休塾の一日、家内と農作業に汗を流した。お米の脱穀を本日終了した。今年の農作業もお米の出荷を残してほぼ完了である。いつでも新米を食べられる状況である。

夕方疲れた身体を癒そうと奥州市前沢の温泉に行ってきた。さすがに平日なので貸切状態だったが、本当の温泉は気持ちが良い。

最近では温泉というなの普通の銭湯のような施設が多く、お湯が塩素臭がしてがっかりするところもあるのだが、地下から湧き上がってくる源泉は身体も心から温まり、癒される。

血圧を測ったところ、上が111、下が65であった。ビールと肉食を控え、夜10時以降の食事を取らなくなり、80キロ近くあった体重を72キロに落とした結果、血圧も順調である。これで持病の痛風の発作がなくなれば言うことなしであるが、ストレスがなくならない限り、難しそうである。

明日も休塾で、私にとっては今年度最後の本当の休日である。これから正月の三が日を除いて、受験まで休みはない。日曜日もほとんどプライベート以外の予定が入っている。明日は『風と虹の教室』があるので我が家内は授業であるが、私は愛車の軽トラックにまたがり彷徨ってこようと思う。

山の方へ向かうか、海の方へ向かうか、はたまた街を散策するかは未定であるが、風の吹くまま気の向くまま、一日を過ごしたい。

と言うことで、明日は携帯を持たないかねごんゆえ、いっさい連絡が取れないかと思います。御用の方は、いつも通りこのブログのメールに伝言を入れておいてください。お願いします。

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先生の失敗は必ずあるものだ

とてもまじめでおとなしい塾生のY君が、珍しくキレていた。夏休みに提出した美術作品を、担任の先生が紛失してしまったのだいう。

Y君が吼えて言った 「かねごん先生、聞いてくれますか! 生徒の作品を紛失したら、普通ごめんなさいの一言ぐらいあったっていいじゃないですか。 『なくしたから、また描いてきて~』て先生が言うから、ぼくが一生懸命半徹夜をして描いて提出したら、  『やっぱり、提出は必要なかったみた~い』 の一言で終わりなんて・・・。      もうオレあいつの授業聞かない! 宿題も絶対やらない! 」

日頃おとなしい彼が、怒りまくっている気持ちはよく分かった。こんなふうにして、生徒と教師の信頼関係が崩壊してしまうケースは多々ある。

きっと文化祭の展示やら合唱の練習やらで、担任の先生も多忙だったのだろう。それにしてもやはり生徒に対する言葉が足りない。謝罪するべきところはしっかり謝罪しなければならないのは当然のことで、担任の先生の落ち度である。

私も自分の勘違いや、思い過ごしで生徒を傷つけてしまうことがある。 先月も休塾の日にわざわざ遠い距離を自転車でやってきたM君を、有無を言わさず帰してしまった。実は部活の新人戦で来れなかった塾生の振り替え授業をしていたのだが、何人かの生徒が授業が無いことを再三連絡をしていたにもかかわわずやってきて、教室が混んでいたのだ。

私も汗だくの指導で、感情がやや高ぶっていた。そこへM君がやってきたのだ。座るところもない。「今日は休みだ」と帰してしまった。帰らせてから3分後に、彼に補講をする約束をしていたことを思い出したのだ。

指導中の生徒に待ってもらい、車で後をすぐ追いかけたが、M君を見つけ出すことが出来なかった。自宅に電話を入れたが留守であった。

夜に、お母さんに謝罪したが、M君に屈辱を与えてしまったことに、一週間ほど落ち込んでいた。M君はその後、何事もなかったごとく塾に来てくれている。

本当にすまないことをしてしまったと今でも思っている。

昨日のY君の話を聞いて、誤りをしてしまう事は誰でもあるのだが、謝るべき時は本当に心から反省し、陳謝することは大切なことだと痛感するかねごんである。

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2008年10月15日 (水)

頑張れ15歳!

季節も影響しているのだろうか、日曜日にNHK全国合唱コンクールで課題曲『手紙』~拝啓十五の君へ~を聴いて以来、ずっと中学生達の歌声が私の頭の中で響いている。10月12日の夜にブログに思いを書き上げ、アンジェラ・アキさんの曲『手紙』をブログに貼り付けることで自分の思いはおさまるだろうと思いきや、全然おさまっていない。

自分の中の、感情のせつなさと云うボタンにスイッチが入ってしまったようで、中学生の子ども達の感情があの歌声と共に私に流れ込んできて止まらないのだ。

人を慈しむ心や、愛すること、思い通りにならない青春のもどかしさ、将来に対する不安、歌詞の中にもあるように、15の季節は、荒れた青春の海は厳しいけれど、明日の岸辺へと夢の船は進んでいく。

学習の勉強が中学生のメインである。しかしそれが人生におけるメインでないことは、実は彼らが一番知っている。限りない能力や個性のきらめきが、たかが英語や数学の成績で決められてたまるかというスタンスは間違いなく持っている。

しかし高校受験と云う避けて通れない道を回避するすべもなく、彼等は社会が求める理想の中学生を演じ、無難に門をくぐり抜けていくのだ。反抗心は誰もが持っている。それを言葉に出来ず、態度に出来ず、心に溜め込む苦しさは、実は我々大人が一番知っている。なぜなら私たちはその轍の道を誰もが歩いて来たではないか。

そしてその苦しみは過去のものなどでは全然ない。下げたくない頭を下げ、飲みたくない酒を飲まなければならない時がある。本当ならば、ダダをこね会社に行きたくない日だってあるんじゃないだろうか。でもそれをしないのは、出来ないのは、大人だからじゃなく、守らなければならない多くのものを抱え、背負っているからだ。

愛する妻のため、子どものため、自分のため、プライドや責任などなど、人は人であることを演じ続けなければならない。その先に幸福が待っていると思うからであり、また確実にあらたな明日がやってくるからである。人間は希望があるから生きて行く。

中学生や高校生とて希望があるから頑張れるのだ。

負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな時は、自分の言葉を信じて歩けばいい。『手紙』の中で、アンジェラ・アキさんが強く15歳の僕に語りかけている。

いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど笑顔をみせて生きていこう。そしてその笑顔がきっと道を歩ませてくれるはずだ。

頑張れ15歳!

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2008年10月14日 (火)

『カブトムシ』

教室が混んでいる時はもちろん生徒も言わないが、生徒が一人二人となると待ちかねていたように、「先生久しぶりに歌うたって」と言うリクエストがやって来る。塾生にとっては久しぶりでも、何人かのかねごんブルースファンが、それを一ヶ月に一回やられると結構の回数になる。最近は10日に一度は歌わされている。

勉強の休憩と称してのリクエストであるが、子ども達が癒されるというのならまあいいだろうと言うことで、休憩ミニライブをたまに教室でやっている。

今夜も勉強が終わって帰ろうとした塾生が、私と講師の先生しか居ない状況を見るや否や「先生一曲やって」ということで、『カブトムシ』をリクエストされてしまった。

『カブトムシ』は5年前、教室を建て替える時に、借りていた仮教室のアパートで秋に作った曲だった。次男がまだ小学校3年生で、夏休みに一緒にカブトムシをとりに出かけたり、田んぼで蟷螂(かまきり)を捕まえたりしていた頃で、そんな思い出から生まれた歌である。2時間ほどで作った曲だったが、小学校の公演や塾内でこれほど好評を得るとは思わなかった。

CDアルバムを出してとの声が多く、嬉しいのであるが、手作りの録音ミキシング室(我が家の物置)が地震で崩壊し、録音機材がめちゃめちゃになり、片付けてしまった。ゆえにデモテープが作れなくなり今に至っている。私がブログを一週間ほど休み、市内のスタジオを借りて編集等をやればいいのだろうが、どうもブログを休む勇気もなく、うじうじしている。あいかわらずの優柔不断なかねごんである。

かつてこのブログで塾生の要望で『カブトムシ』の歌詞を掲載したことがあるが、今回もう一度ここに書きしたためました。生徒諸君歌ってみてください。

 僕が飼っていたカブトムシ

 ある日動かなくなっていた

 お医者さんに診てもらいたいけど

 僕の貯金箱には30円

 肩たたき券を10枚作って

 パパとママに買ってもらったけど

 130円でカブトムシ治してもらえるかな

 暑い暑い夏休み

 一生懸命さがしたカブトムシ

 町のデパートで買ったんじゃない

 僕が見つけたカブトムシ

 残念ながらカブトムシ

 天国にいちゃった

 そのかわりカブトムシのおうちには

 めすのカマキリ飼っている

 めすのカマキリさんひとりじゃ寂しいだろうと

 おすのカマキリさん入れてあげた

 次の朝おすのカマキリさん消えてしまっていた

 どうしてなんだとパパに聞いたら

 女は強いと一言

 あとで知ったことだけど

 メスのかまきりはオスを食べちゃう

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2008年10月13日 (月)

イーハトーブ音楽祭に飛び入り参加

昨夜は平泉の吉野屋さんにて開催されたイーハトーブ音楽祭のライブに飛び入り参加してきました。

クラシックギターの素敵な演奏あり、ジャズの演奏あり、漫談(?)あり、小劇場あり、3時間弱の癒しのひと時でした。笑いあり、涙あり、そして素敵な豚汁までご馳走になりました。40名ほどの観客を魅了し続けた3時間でした。

私はオリジナルの名曲(迷曲?)「カブトムシ」「僕の夢」「涙雨」のブルース3曲を歌わせていただきました。平泉中の塾生の生徒達もわざわざ聞きに来てくれて、感謝です。おばあちゃんまで連れて来てくれたT・Aさんありがとう。

わざわざ東京から来られた、語り部の方もおられましたし、中学校の英語の教科書でおなじみの「葉っぱのフレディ」を自ら脚色して演じられたグループの方がおられたりと、バラエティーにとんだ催しでした。次回は来年の4月の開催とのこと。機会があればまた参加させていただきたいと思います。

吉野屋さんのヤングマンさん、大変お世話になりましたありがとうございます。

一関の『LIFE and ART青空』さんより、「私の店でもかねごんさんブルースライブをぜひやってください」というオファーを頂きました。久しぶりの一関ライブが実現するかもしれません。その時はアンジェラ・アキさんの『手紙』をぜひブルースバージョンで歌いたいと思います。あの歌詞は本当に泣けてくるので、やばいかも知れない・・・・・・。

塾からのお知らせ

今週は第7回塾内実力テスト(漢字編)があります。小中全員です。ベスト20位まで張り出します頑張ってください。尚10月16日(木)~17日(金)は休塾です。よろしくお願いいたします。

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2008年10月12日 (日)

拝啓 十五の君へ

今年度のNHk合唱コンクールの課題曲は、アンジェラ・アキ、手紙~拝啓十五の君へ~であった。中学生達が歌うこの歌は、聞くたびに涙が流れてしょうがない。今まで教えてきた子ども達のさまざまな思いや、今生きている15歳の子ども達を思い、涙がどうしてもあふれてくる。

歌詞の中の、負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じて歩けばいいの ああ負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じ歩けばいいの 、このさびのところは本当に泣けてくる。涙腺が洪水を起こしてしまうかねごんである。

純粋でひたむきな、青春の日々を生きている若い命のきらめきは本当にすばらしい。その輝く命に携わることができる我々の仕事は、なんてラッキーなのだろうかと思う。二度とない青春の季節を全力で生きようとする魂のきらめきに、ただただ脱帽してしまう瞬間、自分の過ぎ去った15才の季節がオーバーラップし、私は涙してしまうのだろうか。

青春に対する多くの不甲斐なさと憤り、そしてその中に自分が置き忘れてきた、何か大切なものをいつも背負いながら人は生きている。中学生の生徒達が、これから直面していくであろう人生の轍(わだち)や困難は、子ども達を大人へと導く試練であるとともに、ある種の希望でもある。

くじけないで、うつむかないで、前を見て、愛を信じて、自分を信じて生きていって欲しい。

拝啓 

この手紙読んでるあなたが幸せな事を願います

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親から受け継いだもの

夫婦の元に最初に生まれた子ども、つまり第一子であるが、長男や長女は多くの期待と多くの希望を背負わされ生まれてくる。弟や妹の面倒を見ることから始まって、最後は親の面倒を看る責任者のような存在である。

塾生達を指導していても、第一子とそうじゃない子の性格というのか、オーラーというのか存在感にはあきらかな違いがある。

一番目に対する親の期待度はあきらかに2番目、3番目とは違う。それが功を奏する時もあれば、裏目に出るときもある。とにもかくにも一番目は、試行錯誤しながらも両親によって一生懸命育てられる。怒涛のごとく愛情が注がれる。長男や長女が、長男や長女たるゆえんが実はこの時期に形成される資質であるような気がする。

次男や次女に愛情が注ぎ込まれないわけではない。愛情の質が違うような気がする。例えて言うならば、第一子は幼稚園児が小学校に入る前に初めて買ってもらったランドセルの感覚。第二子以降は、机や入学式で着る洋服。どれも嬉しいのだが、嬉しさの度合いではなく、質が違う。どれもなくてはならないのだがやっぱり質が違う。

ランドセルは毎日使うものだが、ありがたみが薄れ邪険に放り投げたりする。机は動じずに部屋に鎮座しているが、たまに無性に片付けてみたくなったりする。親が長男や次男を待遇する態度にどことなく似ているように感じるのは私だけだろうか。モノに例えて失礼だが・・・。

子どもは親から受け取ったものを、また自分の子どもに与えていく。それがそれぞれの家の伝統だったり血筋と言われるものなのだろう。人間の深み、人間の情愛は親によって培われていく。

幼児期に受けたトラウマは、無意識のうちに伝播されていく。幼児期に親から虐待を受けた子どもは、自分が親になったときに子どもを虐待してしまう。負の連鎖を止められるのは、パートナーの愛であり、家族の愛であり、社会の愛である。

昨今モンスターペアレンツの問題が取りざたされているが、小学生や中学生を持つ若い30代のお父さんやお母さん方の親世代は、俗に言う団塊の世代である。学生運動やプロテスタントソングやヒッピー文化のように、過激な若者文化を追求してきた世代の団塊ジュニアが過激なはずがない。

私が塾講師を始めた頃は、上司や塾長さん方は団塊の世代だった。やることなすこと奔放で、悪く言えば向こう見ず、よく言えば常識にとらわれない快活さがあった。そのエネルギーは間違いなく子ども達に伝授されたであろうと思われる。

モンスターペアレンツのむちゃくちゃな奔放さをみていると、60年代の安保闘争を、ふと思い出してしまうのは私だけの幻想だろうか。

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2008年10月11日 (土)

たまには愚痴も言わせてください

今在籍している塾生には一人も居ないのだが、ここ数年月謝を滞納し、そしてそのまま塾を辞めていく生徒がいる。塾を休みがちで、月謝が未納と言うのならまだしも、しっかり通ってきて補習まで受けに来て払わないのである。

5年ほど前までは無かった現象である。何かが変わってきている。昨年は滞納者の多さに、「3ヶ月以上月謝を滞納した場合は、指導停止です」という決まりを作り、塾内に掲示したほどである。

月謝滞納のまま辞めるにしても、本人や親が塾に電話を入れるわけでもなく、友達を使って退塾の趣旨を伝えてくる始末で、開いた口がふさがらない。もちろんそのような生徒の成績がいいはずも無い。気が弱い私は、サラ金のような催促を出来るわけもなく、そのままにしてしまっているが、ここ数年で未払いの金額はかなりになる。

聞けば私立高校でも授業料の滞納が多く、退学者の半分近くが授業料未納による退学処分だという。公立の小学校や中学校における給食費の未払い問題が一時期話題になり、マスコミに取り上げられたが、親のモラルがどこかおかしなことになっている。

我が塾の月謝jは、決して高いわけではない。週の回数にもよるが、集団個別指導で5000円から12000円ほどの金額を頂いている。私は払ってもらえない月謝の金額を問題にしているのではなく、払わない親の態度を問題にしているのである。

さすがに数ヶ月も月謝が溜まると、生徒も気が引けるのであろう、塾に来るものの、自習室にこもり指導教室に入ってこない生徒が居たりする。気の毒である。その分月謝を割り引いたりしてあげるのだが、お礼を親御さんに言われたことがない。

滞納しているご家庭は、お金に大変なのだろうなと思いきや、塾に来て外国に行ってきた話などをしている。さすがに私も大人なので「そんなお金があるなら塾の月謝をはらえ」とは言わないが、しっかり心の中ではつぶやいている(・・・笑い)。市内でも有名なほどの低額料金を維持している我が塾であるが、どれだけ涙ぐましい企業努力をしているのか、そういった親御さんは知る由もないんだろうなと思う。

いつも私のブログを読んでくれていて鋭い意見やアドバイスをしてくれる塾生がいるのだが、先日私の一日の小遣いが500円という記事を書いたところ、「先生、きっとさ、世の中の知らない人は、ブログの受けねらいの話だろうななんて思うだろうけれど、先生が毎日乗ってくる20年ものの軽トラックを見たらさ、きっと実感わくよね」と、励ましてくれたのか、同情してくれたのか、そんなことを私に話してくれた。

どこの塾も同じだと思うが、塾生が卒業していった4月~6月は、塾にとって経済的に大変な時期である。今はどうにかぎりぎりしのいでいるが、かつては頂いている塾生全員分の月謝を合わせても、借りている土地代やテナント料が払えない年があった。家族の保険を解約したり、銀行に頭を下げに行ったり、そこが個人経営の醍醐味でもあるが(・・苦笑い)苦しいい時代もあった。

近年は中総体を終えて入ってくる中三生が多くなった。実は4月、5月はそう云うわけで入塾の穴場である。どこの塾でも生徒が喉から手が出るほど欲しい。ゆえに1年間で一番懇切丁寧に教えてくれる時期である。26年間塾をやってきた私が言うのだから間違いない。苦手な教科の指導を個別に教わりたいのなら、4月5月の部活が忙しい時期をあえて利用すべきである。

今年の我が塾は、モンスター○○の親御さんも居ず、滞納者もなく、塾内のものを破損する生徒も居ず、非常に穏やかな年である。感謝をしている。普通に受験指導に専念できるということはありがたいことである。私が指導中に切れる回数がこんなに少ない年も珍しい。お陰で血圧も今年はいい感じである。・・・今年は車椅子で病院に担ぎ込まれることはないだろうと思う。・・・いや、ない!!

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2008年10月10日 (金)

青春の響き

このところ毎日雨が続き、農作業も庭仕事も出来ずじまいで、午前中ゴロゴロしている。今日などは、朝ブログを更新して、そのまま一時間半ほどコタツ寝をしてしまった。寝すぎて頭が重い。

今日で市内すべての中学校の中間テストが終わった。いよいよ中学校は文化祭準備が佳境に入る。それと平行し、新人戦の県大会も近づいており、生徒も多忙極まりない。

今このブログの下書き原稿を塾の教室で書いているのだが、すぐそばの一関一高のテニスコートから、ボールを打ち合う音が響いてくる。昨年新校舎が完成し、そして今年9月にようやく校庭も出来上がり、放課後に部活にいそしむ生徒達の華やぎが聞こえてくる。活気があって気持ちが良い。まさしく青春の響きである。

最近年を取ったせいか、よく中学校時代や高校時代の夢を見る。記憶の片隅に追いやられていた当時の何気ない場面が、ディフォルメされて現れたり、懐かしい友人のさりげない仕草が夢に現れたりする。

塾生諸君の中には受験が近づくと、「もう一度中学校1年生に戻って、やりなおして~」などと、なんとも切ないことを口にする者がいる。そのくらいの気持ちがあるのなら、大丈夫明日に向かって突き進んで行けるはずである。嘆くこと無かれ。

「先生、自分の過去に戻りたいとしたらいつに戻りたい」などと塾生に尋ねられることがある。

私は決して中学校時代や高校時代には戻りたくはない。あの切なくて、社会に苛立ち、学校に苛立ち、そして自分の不甲斐なさに苛立っていたあの頃に、戻りたいとは思わない。間違いなくまた音楽にのめり込み、部活にのめり込み、勉強もせず、背伸びをして大人社会をにらみ続ける時代を過ごすだろうことは目に見えている。

こうやって年を取って行くことが私は好きである。やって来る明日が毎日楽しみである。過去には戻りたくない。

体力は衰え、髪の毛は乏しくなり、身長もとうに息子達に追い抜かれてしまったが、年を重ねることはいいことだと思う。

自分の定められている命があとどれほど残されているのか知るよしもないが、先頃亡くなった名優緒方拳さんのように、死ぬ間際まで自分の仕事が出来たなら本望である。

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2008年10月 9日 (木)

中高生はタバコをやめられるか

喫煙習慣のある中学生や高校生は、大人よりも「たばこが値上がりしても喫煙はやめない」と考える傾向が強いことが、厚生労働省研究班(主任研究者、大井田隆・日本大教授)の調査で分かった。たばこは若年層ほど依存度が高くなることなどが関係しているとみられ、研究班は「禁煙を進める対策として価格を上げるなら、最低1箱1000円程度にしないと未成年者には効果がない」と指摘している。

 昨年12月~今年2月、全国の中学校130校、高校109校の計約9万人を対象に調べた。

 1カ月以内に喫煙したのは全体の5%。この層に、たばこ価格と喫煙行動の関係を聞いたところ、1箱600円では「やめる」が25%にとどまり、1000円で「やめる」(42%)が「吸い続ける」(29%)を上回った。一方、喫煙しない層に「いくらなら、たばこを始めないか」を尋ねると、最も多い回答は「1500円」(38%)だった。

 別の厚労省研究班の調査では、成人の喫煙者の過半数が禁煙を決断する価格の平均は、依存度が低い層で1箱467円、高い層でも706円と、中高生より安かった。

 研究班の尾崎米厚・鳥取大准教授(環境予防医学)は「未成年者は短期間で依存度が高くなり、調査では喫煙者の約1割が高度のニコチン依存だった。喫煙者の3分の1は月に3000円以上のたばこ代を使っており、中途半端な値上げでは喫煙習慣は止められないだろう」と分析している。【清水健二】

毎日新聞 2008年10月9日 東京朝刊

この記事を読んで皆さんはどういう感想を持ったろうか。未成年者にタバコを吸わせないためにタバコを1000円にした方がいいと言うが、覚せい剤や大麻の事件を見て分かるように、吸引したいがゆえに売春に走ったり、組み合い関係の組織に利用されたり、高くなればなるほど、手に入れることが困難になるほど犯罪が増えていく。

今までにタバコ代欲しさに後輩からお金をゆすりとったという事件はたびたびあったが、これが一箱1000円ともなれば、凶悪な事件が増えそうで私は正直怖い。

先日『我が家の小遣い事情』でも書いたが、私を含め世のお父さん方は、小遣いも減らされ苦しい日々である。私はたまたまタバコを吸わないが、仕事の合い間に吸う一服のタバコの楽しみも奪ってしまう値上げはいかがなものだろうか。

出来れば吸わないほうがいいにきまっているタバコであるが、公然と売ってきて、高くなったからやめましょうと言っても、岩手のようにタバコ農家が多い地域は、ますますダメージを受けるだろうし、タスポ導入で高いタバコ自動販売機を購入した商店街の負担もある。

強烈な値上げで片付く問題ではない。

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塾内睡眠パート2

先日塾内睡眠というブログ記事を書いたところ、塾内で色々な反響があった。

一つはお母さん方より、「うちの子のことじゃないですか?」という心配の声と、もう一つは、ねむっている友達をどう処遇すべきかという塾生からの問いかけであった。

夜の塾は確かに日中の疲れも出やすく、睡魔に襲われやすい。眠りに落ちないまでもうとうとする生徒は現実には結構いる。10分でも20分でも自習室に行って仮眠をとってから勉強に復帰するという手段も無きにしもあらずだろうが、意識が朦朧としている状態では、そのような機転もきくはずがなく、どうしても瞑想状態に入ってしまう。

学校の成績がかんばしくない生徒が眠る傾向があると思われるかも知れないが、我が塾に限って言えば関係ないようだ。出来る生徒もそうじゃない生徒も、寝てしまうことがある。偏差値にはいっさい関係ない。

進学校などでも毎日徹夜勉強をして、授業中は寝ている生徒がいると聞く、そして成績もいいのだという。たとえ成績が良くともやはり授業中に寝ているという態度は決してよいことではない。しかし成績の良い生徒には、先生の態度も厳しくなりずらいところがあるようで、注意をしない先生も居るという。

点数がよければ何をやっても良いという、負の連鎖を生んでしまう指導だけは避けなければならない。逆に成績が悪いからといって、その子の人間性や日常行動を色眼鏡的に見ることもまた決してあってはいけない。

授業中騒がしいことに対してはもちろんすべての先生が叱るだろうし、注意もするだろうが、寝ている生徒に対しては微妙な態度が生まれる。私学のスポーツクラスなどでは、練習疲れで眠っている生徒に対しては注意をしない学校もあると聞く。

スポーツで実績を出してもらえばよいという考えが根底にあるのかも知れないが、それとても進学校で寝ている生徒と同様、必ずどこかで生徒をゆがませてしまう結果になるような気がしてならない。

授業中に寝るということは、授業をしている先生に対しての生徒としての立場や、生き方の根本的姿勢みたいなものが問題であって、授業が分かるから寝てていいとか、さっぱり分からないから寝ているという次元の問題ではないと思う。

塾の教室や学校という教室の空間を共有している共同体が、クラスやコースと呼ばれているものであり、そこに集う生徒達は偶然ではなく何らかの存在理由があって集う中間達である。うるさくしていたら注意をしてやる、寝ていたら「起きなさいよ」と声をかけてあげる。面倒くさいかも知れないがそれが親切さである。

だから私も雷を落とすのである。

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2008年10月 8日 (水)

我が家の小遣い事情

塾に通ってくる生徒達に、一ヶ月に小遣いをいくら位もらっているのか聞いてみた。中学生は3000円くらいが相場のようだ。ケータイを持っている生徒はプラス電話代ということになると、結構の金額になる。

ちなみに私は息子が中学生の時は小遣いをあげなかったし、今現在もあげていない。スクールバスの往復の日々で、お金を使うこともないのだが、なにぶん家の周りは見渡す限りの田んぼと山ばかり、お店など皆無である。ゆえにおやつやドリンクの現物支給で、お金はあげていない。

長男も高校2年からバイトの日々なので、小遣いはあげていない。携帯代を払ってあげているくらいである。高校生のバイトを市内の高校はたいてい禁じている。違反が見つかれば停学処分という厳しさである。息子の場合は、我が家の経済事情のため学校に許可を申請し、承諾してもらった。

自動車学校の費用25万円も息子が自分のバイト代で払った。オヤジが不甲斐ないので、息子達はそのぶん経済観念はしっかりしているようだ。

私の学生時代は、家が貧しかったゆえ、奨学金とバイト代で高校の授業料も大学の授業料も自分で払った。そしてそんな学生が珍しくない時代だった。今の社会状況とて、決して豊かではない。高校生のバイトに対しては、ただただ禁止をするのではなく、勉強との両立を考えた指導も必要なのではないかと思うのであるが、いかがだろうか。

子どもの頃にしっかりと、お金の大切さ、お金を得ることの大変さを知ることは、いい社会勉強だと思う。我が家の教育方針としては、バイト奨励派である。

私が塾生たちに小遣いの話をすると必ず聞かれるのが、「先生奥さんから小遣いいくらもらってるの」という質問である。私はサラリーマンではないので、毎月の収入が一定していない。ゆえに小遣いも変動相場制であるが、平均すると一日500円ぐらいである。

いつも立ち寄るセブンイレブンで、缶コーヒーとプリンタイ抜きのビールを買って、ブックオフで105円の単行本を買うと消える計算だ。わたしはタバコを吸わないし、外で酒を飲むことも無い。ギャンブルもやらない。この大験セミナーわくわく日記を毎日書くようになってからは、人付き合いも減った(・・・笑い)。収入に会わせ質素な暮らしをしている。

好きなジャズを日々聴き、仕事をやり、ブログを書き、そしてたまに卓球をやる。ちょっと健康に不安はあるものの、充実した毎日である。後はお金の問題だが・・・・・まあ何とかなるか。

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2008年10月 7日 (火)

お知らせ

塾生の皆様

明日、10月8日(水)は塾のお休みです。

いい話だ~

一関市内で9月、雷に驚いて行方不明になっていた飼い犬が17日ぶりに飼い主の元に戻った。飼い主や知人らが懸命に捜したところ、県立一関工業の男子生徒3人の手により無事保護。高校生の善意と関係者の協力、飼い主の必死の思いが一匹の犬を救った。

岩手日日新聞 10月7日(火)

高速道路のガード下で倒木に鎖がひっかかり、衰弱していたワンちゃんを救い出し、17日ぶりに飼い主の御宅へ、高校生3人が届けた記事が掲載された。一関工業土木科の3人の心温かい行動に思わず目頭が熱くなったかねごんである。

でっかく掲載された熊谷君、小山君、桜田君の3名は、はにかんだ笑顔で新聞に載っていたが、久しぶりのいい話に、今日は清々しい気分だ。また飼い主の方の喜びと安堵もひとしおであっただろうと思う。

飼い主の方々にとっては、ワンちゃんや猫ちゃんは本当に家族同然であり、かけがえの無いパートナーである。我が家でも先日飼い猫が丸二日帰ってこず、私の母をはじめ、息子達家族一同がご飯もろくに通らない状態だった。本当にペットがいなくなってしまう悲しみは、居たたまれないものがある。

何事も無くコタツ寝をしている我が家の猫もそうであるが、17日ぶりに無事戻ってきたワンちゃんに、「良かったね」と心から言いたい。

飼い主の加藤さんは「3人には助けてくれた上に、飼い主まで捜してくれて感激した。今回の件で、レムが家族にとってすごく大事な存在と気づかせてくれた。改めて、大事に飼って行かねばならないと感じた」と思いを語っておられた。

本当にいい話だ。

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生きてるって何だろう

今日は、この秋初めて教室に暖房が入りました。一雨ごとに寒さが増しています。一関市内を流れる磐井川には、カップルの白鳥が早くも舞い降りています。秋が深まり、一日一日冬が近づいています。つい先日まで扇風機が回っていた日々が嘘のようです。

田んぼの稲刈りも急ピッチで進んでいます。週末には、田んぼの農作業を手伝う子ども達の姿を見ることが出来ます。ほのぼのとしていいですね。

我が家では、今日コタツが茶の間に置かれました。さっそくメス猫のキラがコタツでお昼寝です。実は私もこたつ寝が大好きです。昼ごはんを食べた後の、20分ほどの昼寝が至福の時間です。昼寝が出来なかった時は、塾の仕事も今ひとつパワーが出ません。昼寝は私のエネルギーのみなもとです。

ところで我が家でも、あと2週間もすると新米が食べられます。ほとんど農薬を使わず、山から流れてくる水を利用したお米はとてもおいしいです。金銭面を考えると割りにあわない米作りですが、食の安全という面では棄てがたいものがあります。体力がある限り続けようかと思っています。

食と言えば、やはり最近腹立たしいというか呆れたというか、中国産の食品のずさんさには開いた口がふさがらない感じです。お金になれば何を使ってもいい、健康被害なんか関係ないという姿勢がまるだしで、中国人の倫理観を疑いたくなります。

知識不足で知らないで使ったというのならまだしも、故意にやっている現状は本当に許しがたいです。日中戦争での日本人に対する積年を恨みを、まさか食品テロの形で報復しようとしているのではないでしょうが、私は食を無碍にする国は、食に滅びると思います。

人間の命の源は食にあることは言うまでもありません。その食を軽んじるどころか、命を奪ってしまう添加物を平気で使う国が、今後栄えていくとは思いません。その点では、日本国内における事故米の食用転用事件も許しがたいものがあります。お金になれば何でもOKという企業人の考えがいまだにあるとすれば、日本の経済も明るい兆しが見えてこないと思います。

大分の不正教員採用事件もしかり、二度にわたる責任投げ出しの首相退陣劇もしかり、自分の社会的地位を、何かの魔法の杖でもあるかのように勘違いしている権力者の皆さんが多くいらっしゃる。汗水たらしてがんばることを放棄してしまったトップに、何の魔法も生まれないのに。

このようなブログで彼らを批判してもしょうがないのは分かっているのですが、ついつい言いたくなりますね。

先日息子達と久しぶりにゴールデンタイムにテレビを見ました。『笑う犬の冒険』のリメイクの特番をやっていたのですが、あの懐かしいフレーズ「生きてるって何、生きてるってなんだろ」を久しぶりに耳にしました。息子達と笑いながら、心の奥底で「生きるって何だろう」と、現実社会の理解しがたい理不尽さや虚無的な現象に、フレーズがリフレインしていた私でした。

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2008年10月 6日 (月)

子どもの気質

シュタイナー学では子どもの気質を4つに部類しています。

胆汁質。自我が強い気質で、激しいし気性が特徴です。この胆汁質の子どもは、仕切るタイプの子どもが多く、親分肌のリーダータイプの子どもが多いようです。体型的にはがっちり型が多いです。

多血質。感情に支配されやすく、好き嫌いが激しいタイプです。チャレンジ精神旺盛ですが、飽きやすいのが欠点。楽天的で、友好的であることが長所です。すらっとして都会的なイメージを持っています。

粘液質。ぽっちゃり型の傍観者タイプです。食べること、寝ることが大好きな子どもが多く、甘えん坊が多いようです。平和主義者ですが、親御さんが背中を押してあげないとなかなか一歩を踏み出せません。

憂鬱質。過去の失敗や挫折にこだわりすぎ、未来に対する展望を持つことが苦手です。眉間にしわを寄せて思い込むタイプです。自分を常に被害者として位置付けてしまいます。

これらの気質の分類はシュタイナー学のオリジナルではなく、古代ギリシャの文献や現代精神医学の基本として、表現を変え、さまざまな分野で目にするものです。星座占いや、血液型、更には中国の陰陽道の世界にも垣間見ることが出来ます。

これら4つの気質の融合によって、無限の性格や気質が形作られます。両親の性格や、育った地域性、家系と呼ばれる血の系譜、そしてシュタイナーはこれに、魂の系譜や前世の影響なども考慮し、子どもの成長のための教育を実践していきます。

学校の公教育や私的教育機関に限らず、最近はシュタイナー学に興味をもたれている先生方が増えております。我が塾が5年前に始めました『風と虹の教室』は、幼児や小さな児童が、手遊びや身近なアートを通じて、心の創造性を豊かにしてもらおうとスタートさせた教室です。そしてさりげなくシュタイナー教育のエッセンスをそっとちりばめております。

教育は学校や教科書の中にあるのではなく、親の愛情によって培われていくものです。保育園や幼稚園はあくまでも補助的な教育機関です。シュタイナー教育とてその例外ではありません。幼児期の一番の先生は母親です。お母さん方にこそシュタイナー学の精神性を学んでいただければ幸いです。

代表のあきこ女史の本棚には、国立大学の蔵書を凌駕するシュタイナー関連の本が鎮座しております。教育のアプローチは様々です。図書館やネットでも実に豊富な教育書が紹介されています。自分の感性にあった本選びもとても大切なことです。そんな一冊の中にシュタイナー学の本を加えてみるのもいかがでしょうか。

「風と虹の教室」のブログには、毎日シュタイナーという検索ワードが必ず打ち込まれ、入ってこられる方がおられます。幼稚園の先生方や小学校の先生や塾の先生方の中にも、シュタイナー教育に関心を示される方が多くなりました。私どもの塾はシュタイナー教育の思想や感性を確かに取り入れておりますが、専門機関では決してありません。塾そのものの存在自体がそもそもシュタイナー学とは相反するものです。

その矛盾を一番自覚しながら、受験指導に携わる私どもの塾のあり方もまた特殊なものだと思います。教育現場で起こっているさまざまな問題点を、表面的な事象で論じるのではなく、個々の人間が抱え持つ気質や心の深みの中で、対話をしなければならない、そんな時も多々あるような気がします。

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2008年10月 5日 (日)

塾内睡眠?

我が塾に通ってきている生徒で、教室で必ず10分は寝る生徒がいる。それも苦手な英語の勉強となると瞑想状態に入ってしまう。目が覚めた後はすっきりするようで、何事も無かったかのごとく、再び演習に復活するのであるが、私が目を離したすきに瞬時に意識が遠のいている。

本人に話を聞いてみると、塾に来る日は部活の朝練習があって、いつも5時起きなのだという。ゆえに夕暮れ時の塾の時間は睡魔が襲うらしい。

私が他の生徒を指導している間に睡魔に襲われ、鉛筆を握りしめたまま意識が遠のいて行く生徒が一週間に2,3人はいる。1,2二度は注意を促し、意識を回復させるのであるが(・・・笑い)、3度目以降はスヤスヤと眠るままにさせておく。

起こしたところで頭はボケボケ状態だろうし、月謝を払ってもらって塾に来ているのに、寝てしまったという後悔の念は無いわけではないだろうから、本人の自覚に期することにしている。怒鳴っても始まらない。逆に勉強をしている回りの生徒の気分を害するだけである。

塾生に就寝時間を聞くと、遅すぎる。12時前に寝る中学生が少ない。テレビ、ゲーム、パソコン、携帯、漫画本、遊びの誘惑が日々襲いかかる。寝たくても眠れない精神状態が日常化していく。そして朝はぎりぎりまで寝ている。ゆえに朝ごはんを食べる時間がなく、学校へダッシュ。

我が家も、人様のことを言える状況ではないが、激しい部活をやっている生徒には、最低6時間以上の睡眠は必要である。成績のためではない、健康のためである。若さを過信した体の酷使は、後で負担がやって来る。ゆめゆめ忘れてはいけない。

私もさまざまな雑用が重なり、睡眠を確保できなかった翌日などはたいへんである。塾生達の質問も無く、カリカリと鉛筆の音だけが響くような時間帯はやばい。思わず意識が宇宙に彷徨い、かねごん星に帰還する状況になってしまう。気をつけなければ・・・・・。

受験勉強の眠気覚ましに、カフェイン錠剤を呑む生徒を見かけるが、やめたほうがいい。百害あって一利なしである。眠い時にはまず寝ることである。無駄な時間を過ごして遅くまで起きている習慣と決別すべし。

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田舎個人塾の良さ

個人塾をやっておられる同業者の方々の中には、優秀な先生がたくさんおられる。私がお付き合いいただいている先生方を見渡しても、東北大や京都大学など一流の大学を出られた方ばかりである。私のように10年後20年後に、自分の母校がなくなるんじゃないかと心配しているような大学出身の輩は少ない。

皆さん謙遜をなさって、自分の出身校を口にしたがらないが、塾の先生をやっているのがもったいないほど優秀で研究者肌の先生が多くいらっしゃる。

都会で働く方には失礼な物言いになってしまうが、さまざまな人間が集う都会は、本当に仕事のニーズが多様である。仕事を選ばなければ食べていくことには事欠かない。

一方田舎であるわが町は、有効求人倍率がここ10年間1.0を割っている。失業率も相変わらず高い。忍耐と努力なしでは生きていけないのが実状である。ゆえに若者達は「こんな村いやだ~」と言いながら都会を目指す。農業にしても、自営にしても、そしてサラリーマンにしても、少ない人口の中で、いかに利益率を上げるかが課題となる。その努力たるや、涙ぐましいものがある。

田舎は閉鎖的だとよく都会人から指摘を受けるが、閉鎖的なのではなく、防衛的なのである。そのへんのところがなかなか理解されていないように思う。

インターネット等の普及により、経済や物流の流れが全国的に均一化されてきたと言われているが、まだまだ東北は東北のままである。

田舎に居ながら都会的な生活をしようということ自体が、そもそもボタンの掛違いであって、田舎のよさを利用せずして、生活の基盤は立ち上がっていかないように思う。

塾もそうである。東京や都市部を基点とするフランチャイズ塾を良しとして、都会の子ども達と同じ教材、同じ指導を求める地方の親御さんが多くいるが、果たして本当に効果的な教育であるだろうか。

都会人と同じ土俵で戦っても、都会に生まれ育った人間の感性には勝てない分野がどうしてもある。田舎人には田舎人のフィールドというものがあるはずである。都会人にはない田舎人のモチベーションや感性を磨くことが、逆に都会に出たときの生き抜く武器になることを知って欲しい。

そういった意味でも、地方の町々で営まれている寺子屋的個人塾の役割は大きいものと私は信じている。私の塾に入塾してくる生徒の中には、ご家庭が自営業をされているお家も多い。高校の進路で迷っている時などは、「将来家の仕事を継がせるのならば、やはり地元の高校がいいんじゃないですか」などとお話をさせていただく。

私は塾教師であると共に、一応一経営者でもある。20年も同じ場所で塾を営んでいると、商店街の人間関係や、それぞれの地域の気質やお客さんのニーズなどが見えてくるものである。そんなことも踏まえ、塾生たちに話をすることも多い。それなども個人塾の付加価値なのではないかと自分では思っている。

生徒にタイムカードを押させ、ノルマ的に生徒にプリントをこなさせ、先生方がマニュアルに縛られる塾、そんな塾にはない良さが個人塾にはある。長年やってきた先生方は、間違いなくそれだけのノウハウと技術を持っている。そして子ども達を合格に導く感というか、運みたいなものを持っているものだ。

全国から「個人塾」などの検索ワードで私のブログに入ってこられる方々が多いが、きっと塾選びのために、PCの前に座っている親御さんも多いかと思う。ぜひ地元の個人塾を訪ねてみていただきたい。そして話を聞いてみていただきたい。大手にはない何かを感じるはずである。

個人塾はアバウト過ぎるとの世間の声もあるが、私はそのアバウトさが、指導の中でプラスアルファーを生み出す力ではないかと思っている。

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2008年10月 4日 (土)

わが町の塾事情

一関市立桜町中学校合唱部が、香川県で行われる全国大会に出場する。当塾生も桜中生4名が晴れの全国行きを手にした。心からおめでとうを言いたい。

桜町中学校は昨年サッカー部が全国大会の切符を手にした。運動部、文化部共に非常にすばらしい活躍をしている。これも指導者の先生、コーチをはじめとし、保護者やご家庭のご協力、ご支援の賜物だろうと思う。

大験セミナーはこの桜町中学校の学区にある。おのずと塾生も桜町中学校の生徒が多く、毎年塾生の半分を占める。塾の中学生は桜町中をはじめとし、一関中学校、山ノ目中学校、中里中学校、厳美中学校、花泉中学校、平泉中学校、衣川中学校の計八つの中学校から集まってきている。

市内の中央に我が塾が位置しているお陰だと思うが、合併前の旧市内の中学校すべての生徒が、最低一人以上は在籍している。すべて教科書は統一されているので、準拠問題集やワークは問題はないのだが、各中学校の進度がだいぶ違う。

数学に置いては、単元が二つも開きがある中学校がある。国語は先生の都合なのか、授業する単元が、前後左右しょっちゅう入れ替わる学校がある。公民に至っては冬休み前に終わってしまう学校もある。中間テストや期末テスト対策は、いつも汗だくである。統一プリントがいっさい作れない。個人個人に適応するプリントを瞬時に用意せねばならず、なかなかドキドキものの日々である。

パソコンを全面導入し、ボタン一つで必要な問題をプリントアウトできれば、指導する側は大変楽なのだが、それでは月謝のコスト高を生じさせてしまう。個別指導塾で市内で一番リーズナブルな月謝設定が出来ているのは、IT化をせず、伝統に(?)に培われたアナログ作業をしているからである。三桁の生徒数にならない限り、今のシステムは稼動可能と自負している。

三桁で思い出したが、20年間で塾生の数が一度だけ三桁になったことがあった。その年は、市内にある一番生徒数が多かった塾が、幹部の内部抗争が原因で閉塾した時であった。先生の人数を今の2倍にして対応した記憶がある。

塾生が少なければもちろん大変であるが、多ければ多いでまた大変である。ちょうど良いというのがなかなか難しいのが世の常である。

職業別電話帳に記載されている、中学生を教えている市内の塾の数は25件である。10万人ちょっとの田舎町で、この他に俗に言う隠れ塾を入れると計40件ほどの塾が存在する。

現在市内に在籍する中学生の数はおよそ2500人。市内の中学生の通塾率は38パーセントと言われているので、実質950名の生徒を40件の塾が取り合っていることになる。平均すると一軒あたり23.75人である。本当に厳しい状況である。

私のブログを読んでくださっている方から「塾はいいですよ。僕もやりたいな~」と、嬉しい言葉を頂戴するのだが、現実はこんなところである。厳しいだけにやりがいもある。間違いなく自分が好きで始めた仕事である。このブログ同様、やめられない止まらないかっぱえびせんである(古・・・)。

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2008年10月 3日 (金)

漱石流自己紹介

我輩は塾教師である。青二才の文学青年が酒と恋と文学を語るごとく、どうでもいい日常をブログにしたため、教育的指導を世間から受けつつも凝りもせず、自分の勝手な思いを得々と書き連ねる日々である。

毎日17キロの道のりを山里の自宅から軽トラックで一関一高の前にある塾に通いつめ、早20年近くになる。

塾生は我輩をどう思っているのか知らないが、塾教師の割には人見知りが激しく、結構傷つきやすい小心者である。

自分で言うのもなんだが、それゆえ他人に対する気遣いはそれなりにあるつもりだ。気疲れのせいか30歳半ば辺りから髪の毛が寂しくなり、今や空前のともし火である。

我輩にはやめられないことが三つある。卓球とブルースをがなりたてることと、このブログを書くことである。タバコとパチンコは30歳でやめることが出来た。と言うかお金に余裕がなくなってやめざる終えなかったと言ったほうが正しい。

29歳の時に長男が生まれた。その後今の塾を始めたのが30歳の時であった。30歳の若造に自由に出来るお金などあるはずもない。それでタバコもパチンコもやめた。それ以来19年弱今日まで一度もやったことがない。

毎年塾生諸君に、塾教師になった理由を聞かれる。我輩は教員試験を受けたこともないし、商社や一般企業を受けたこともない。笑っちゃうが、二十歳を過ぎた頃より、音楽で飯を食べることを真剣に考えていた。いわゆるアーチストである。

いくつかの音楽事務所を訪ねたが、私の行く場所はなかった。仕方なく生活のつなぎとして、大学を出た後塾の仕事に就いた。仕事は夕方の4時から夜の9時まで、時間は一杯あった。4畳半一間のアパートで、日々詩を書きとめ、曲を作っていた。あの時期どれだけ曲を作っただろうか。

しかしあるとき我輩は思ったのである。「塾教師も棄てたモンじゃない、音楽を諦めて郷里に帰ろうと」。

その時から音楽は私の趣味としてのライフワークとなった。毎年地元の小学校でサンタミニライブをやらせてもらっている。たまにどこかしこでブルースを歌っている。言わば歌は我輩の青春の残像であり、ストレス解消であり、塾教師としてのモチベーションを保つ糧でもある。

「かねごん先生のブルース魂」などと言う長いブログのハンドルネームも、そんな思いでつけた我輩である。ご了承くだされ。

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2008年10月 2日 (木)

和田アキ子が好きである

突然ですが、ジャズ好きの私は和田アキ子が大好きである。彼女の声がいい。日本の歌手の中で一番ジャージーな声と雰囲気を持っているシンガーじゃないだろうか。

最近ニューヨークのアポロシアターでライブを敢行したようだが、ブラックなステージがよく似合うシンガーだと思う。彼女は『あの鐘を鳴らすのはあなた』でいっきにスターダムにのし上ったが、下積みが長く15歳の時からジャズ喫茶で歌をうたっていた。

♪人は皆~孤独のなかあの鐘を鳴らすのはあなた~♪小学生だった私は、和田アキ子のソウルフルな声と声量に、心底度肝を抜かれた。こんなかっこいい歌をいつか自分も歌いたいなという思いが、そこはかとなく心に芽生えていった。

ひょっとすると私が音楽を志した一歩が、和田アキ子の『あの鐘を鳴らすのはあなた』だったような気がする。いやきっとそうに違いない。

テレビやラジオから流れてくる彼女の声は、いつ聴いても心にしみる歌声である。司会業からバラエティーまで幅広く活躍されているが、いつか彼女のライブを生で聞きたいと思っている。彼女が歌うじゃずのスタンダードナンバーをぜひ聴いてみたい。

ところでライブといえば、私かねごんが来る10月12日(日曜日)、平泉駅前の菓子工房「吉野家」さんで行われる「第二回イーハートーブ音楽祭」に、ギター一本のブルースの弾き語りで、飛び入り参加することになった。夕方6時開演で夜9時まで行われるが、何時ごろになるかはまだ未定である。

10分ほどのステージになると思うが、私の名曲(?)カブトムシを含め3曲ほど歌う予定である。ブログを読まれている平泉近辺の皆さん、及び塾生の皆さんお暇でしたら寄ってみてください。無料です。

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『子育てごっこ』

「作者の目は、よくゆきとどき、狡くて、かしこくて、おしゃまで、手に負えぬ少女をよく描き、教師夫妻の受け身な心理も、おもしろく納得できた。」「この作者の心田を買った。とにかく温かい。」「東北の寒地にこういう文学が芽をふいたことが嬉しい。」

上記の文は、作家水上勉が岩手の作家三好京三の作品『子育てごっこ』に対し、直木賞受賞委員の評論として述べたコメントである。三好京三氏45歳のでの文壇ディビューであった。

彼が直木賞を受賞したのは私が高校生の時だったのだが、青二才の文学青年だった私は、近隣の作家が、直木賞を取ったことに少なからず興奮したのを覚えている。

昨年5月1日残念ながら病に倒れ、帰らぬ人となったが、彼の文学の感性や生き様に影響を受けた岩手の人間は多いのではないだろうか。

私が以前勤めていた学習塾の顧問を三好京三先生がなされていて、何度か直接お話しをする機会があった。小説の舞台になった岩手県衣川大森は、私の母方の祖母の生誕の場所でもあり、大森の話題で盛り上がったのを覚えている。

生前祖母から何度か大森での話を聞いた事があったが、25年前に父が元気だった頃一度だけよらせていただいただけで、家の場所も、情けないことに苗字さえも近頃では失念してしまっていた。

かつて一度だけ友人と大森分校を訪ねたことがあり、分校の庭から大森の山々を眺めたことがある。その友人も26歳という若さで天国に行ってしまった。大森はいろんな意味で私という人間を、織りなす糸の様に多くの人間に結び付けていく。そして同時に多くの別れも経験した。

その大森にひょんなことから25年ぶりに、先日の日曜日足を運んだ。妻の知人が大森に田んぼを耕しており、ちょうど稲刈りをしていたのだが、彼女がストックしていた羊毛をいただきに、妻と道に何度か迷いながらたどり着いた。

私の祖母の生家がこの大森だという話をしたところ、大森の世話役である、小原さんというおじいさんを紹介していただき、亡くなった祖母の名前を伝えたところ覚えていてくださって、何とか祖母の実家にたどり着き、すでにひ孫がいらっしゃるおばあさんとお話しすることが出来た。

風の噂で私が一関で塾をやっていることをご存知であったようで、驚いてしまった。知らぬは私ばかりであったようで、我ながら恥ずかしい話である。

大森に行く道は今年の岩手・宮城内陸地震で、いたる所にひび割れが出来ていた。崩れた崖の修復もまだ手付かずのところが多い。岩手も学校統合が進み、ほとんどの分校や小規模校が廃校になっていった。大森分校も例外ではない。

25年ぶりにみた大森の里は、秋の陽光にまぶしく輝き、実りの季節を迎えていた。人懐っこい子牛ほどもあるラブラドールレトリバーが、田んぼを駆け回っていた。過ぎ去っていった多くの時間と、そして多くの人達の歴史が、里の光に溶け込んで行ったような錯覚を私は感じ、まだ続いていく私の『子育てごっこ』に、思いを馳せていた。

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2008年10月 1日 (水)

キーワードは少子化

子どもの人口が少なくなった。ここ30年で学童人口が半分以下になった市町村が一杯ある。わが町一関市も例外ではない。

20年前と比べると、市内の中学生の数は半分とまでは言わないまでも、3分の2に激減した。結婚適齢期になっても結婚をしない独身の方が多くなった。これは地方だけでなく、都会も同じ状況である。

ゆえに子どもが生まれない。人口減少の歯止めは、若者達の恋愛観や結婚観の啓蒙運動じゃないかと思うぐらい深刻化している。

恋愛は一杯するのに、結婚に踏み切らないかつての教え子に、結婚をしない理由を聞いてみたことがある。男女共に同じような答が返ってきた。「自由でいたい」 「束縛されたくない」。

私もどうにか23年間結婚生活を続けてきた。若者達が言うような「束縛されてきた」という感覚はない。二人で子どもを育て、苦労を共にし、泣き笑い、生きてきたような気がする。人生に置いて、結婚や子育てが必須アイテムだとは思わないが、出来れば経験したほうがいい、大切な人間の営みのように思う。

私立高校や私大が学校経営の危機に瀕している。我が塾業界とて例外ではない。このまま行けば、私大の3分の1が10年後には消えて行くだろうと言われている。キーワードは少子化である。

戦後の男女平等の社会通念の促進が、女性の職業進出の道を開いてきた。しかし、高度経済成長の下、女性の子育て支援における精神サポートや経済サポートが置き去りになり、女性の子育てそのものが軽んじられてきたような気がする。そして現在40代から60代の母親達が、母親になることのすばらしさを、心から自分の娘達に伝えてこれなかったような気がしてならない。

経済力をつけることが家庭の幸福である。そのような心理状況の中で、子育てよりも働くことを優先させなければならなかった多くの女性の心の慟哭が、現在の少子化を生み出したとしたならば、ジェンダーフリーの考え方を、もう一度精査する時期に来ているのではないだろうか。

少子化問題が、日本の経済基盤を揺るがし始めた今、男性の役割、女性の役割という垣根を越えて、子どもを生み育てる環境を、一刻も早く日本が構築し、形式的な対応ではなく、実務的な即効力のある政策を打ち出さなければならない。

男尊女卑という言葉がかつてあった。もうすでに払拭された過去の負の言葉だと思っていたが、女性を社会に向けさせ、過酷な男性社会の中で同等に戦わせること自体が、かつての女性をないがしろにした悪しき日本社会の復活のように感じるのは私だけだろうか。

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