八杉春実 『人間が好き』
今でも忘れない夢がある。
ボロボロの木造建築、三階建てのだだっ広い大きな教室がいくつもいくつもある教室。その教室の窓から外を見下ろすと子どもたちがゾロゾロ歩いてくる。どの顔も知っている顔ばかり。しかし子ども達は誰一人ぼくの塾を見向きもしないで前を通り過ぎてゆく。
通り過ぎる瞬間、一人一人の子の顔がパッパッとまるでスライドのように別の顔に変わる。やがて彼等ははるかに見える鉄筋コンクリートの白い建物に吸い込まれていく。ぼくは階段をきしませながら急いで下りる。
1階の暗い土間の教室にほんの五、六人の生徒が無表情に座っている。どの子も顔や手にパックリ開いた傷跡がある。ぼくは彼らにひきつった顔で笑いかける。でも、いくら凝視しても、あわてて眼をこすってみても、ぼんやりとかすんで、その子らの表情がよく見えない。
目が覚めると決まって涙がにじんでいた。 (本文より)
1983年の春に出会った本である。塾教師をやることを模索していた私の運命を決定付けた本だと言っても過言ではない。八杉先生は、鳥取県の出身で東京教育大を出られ、私塾『東進会』の塾長をやられていた。くしくも私の父親と同年代の先生である。今年74歳になられるのだが、お元気だろうか。
10歳でお父さんを亡くされ、戦中、戦後ご苦労をなされて勉学をされてきた先生である。八杉先生が東京の練馬区で、六帖一間の教室で塾を始めた、1959年。日本はまさに高度経済成長を迎えようとし、日本の塾ブームが到来する頃である。八杉先生は言わば、日本の塾黄金期の礎を作った第一世代の先生方の一人である。
教室を増やせば、人情的な指導が行き届かなくなる。出来の悪い生徒を何とかしてあげれば、新しい立派な塾ができたからとさっさといなくなる。いつの時代も変わらない、塾教師の苦悩とジレンマ、そして涙と笑いの日々が綴られている。
最初に引用した夢の話であるが、塾をやってこられた先生ならば一度は似たような夢を見たことがあるのではないだろうか。私もそうである。塾が老朽化し、生徒が新しくできた大手の塾に移っていった時など、古くなった建物の片隅で蛙になった自分が、ネオンが光り輝く塾の周りにやってくる蚊や虫を食べに行こうかどうか迷っている、気持ちの悪い夢を見た。若い頃八杉先生の本を読んでいなかったならば、ひょっとしていたならば、塾を辞めていたかもしれない。本当に感謝である。
八杉先生は「人は誰かに勇気づけられると、とても不可能と思われる難しい道だって歩んでみようという気力が湧いて来る」と本の中で述べておられるが、今でも私が生徒と接する時の原点になっている言葉である。
追伸
先生の著書は他に『先生、塾は悪いのですか』(昌平社)があります。今回紹介した『人間が好き』は新声社から1983年に出版されましたが、すでに絶版になっております。
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