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2008年7月 6日 (日)

危うさというもの

進学校でトップクラスだった彼女は、毎日部活が終わったあと、塾に来ては自習をやり帰っていく。途中からは部活も辞め、親御さんが迎えにくるまで教室で本を読んでいるか、勉強をしていた。

3年間全ての教科がオール5だった。テスト順位も二桁になることはなかった。努力家の彼女は読書量もすごく、哲学や歴史学など私とよく議論をし、時に私がたじたじになることも多かった。

彼女は東大の次くらいに難しい大学の哲学科に、楽々と合格した。私が教えてきた生徒の中では、間違いなくトップクラスの子だった。

大学に入って半年ほどした頃、秋の夕暮れ時彼女はひょこり教室に姿を現した。私の顔をみるなり、「先生、私神の存在など絶対信じません。この世に神などいません。そんな妄想と付き合うことももうこりごりです」 そう言ったきり、彼女はすぐに帰ってしまった。

一週間後、彼女から沖縄にいるとの葉書が舞い込んだ。その時彼女はすでに心を病んでいたようだ。二度と教室に現れることもなかった。それが私が塾をやってきて経験した、心を病んでしまった生徒との最初の出逢いだった。

きっと何らかの兆候は現れていたのだろう。けれど経験のない若かった私は、彼女の危機をキャッチしてやれる能力は残念ながらなかった。自分の力の無さに、悔しい思いだけが残った。

あれから20年がたった。さまざまな生徒と接してきた。研ぎ澄まされた感性は、同時に脆さをも露呈してしまうことを、十分というほど思い知らされてきた私である。人間の頭脳は、鍛えれば鍛えるほどその能力を増していくだろうが、そこに感情や精神の脆さが忍び込んでくることがある。

スポーツでもそうである。鍛えられた肉体は頑丈そのものであるが、鍛えすぎた体は時として心臓肥大を引き起こし、命を縮めてしまうことがある。

太宰治,芥川龍ノ介、三島由紀夫、川端康成、多くの天才タイプの作家が、自ら命を絶ってきた。学問の目的は、いかに生きるかということの学びでなくてはならない。文学とて同じだ。学びという精神活動で、その精神や命をないがしろにしてしまうことが仮にあるとするならば、それは人間として間違った方向性を模索してしまったのではないかと思う。

ここで偉大な作家達の死を論じようとは思わないが、少なくとも、人生の最後に自分の存在を否定する行動には、共鳴するつもりはない。

このブログでも何度か繰り返してきたが、勉学の目的は良い高校や良い大学に入るためにあるのではない。より良い人生を、有意義な人生を送るためにあるのである。忘れてはならない。

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