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2008年6月 8日 (日)

宗教と神様

 毎年5,6回は神社に参拝する。家内安全や塾生の合格祈願のためである。いつ行っても鎮守の森の清々しさと静寂さは、気持ちがよいものだ。

 また教会も時に訪れることがある。私が住む隣町に、藤沢町や東和町という町があるが、江戸時代に多くのクリスチャンが隠れ住んでいた里である。悲しくも歴史の流れの中で、惨殺され処刑された多くの農民の供養塔が立てられており、魂を癒すかのごとく教会が静かに佇んでいる。

 信仰という名の希望を最後まで捨てなかった、多くのクリスチャンの農民達の魂が、隠れキリスタンの里に風となってそよいでいるようなそんな気がする佇まいである。街道をはずれ山道を歩くこと50分ほど行くと、奥深き山の中に、小さな洞窟がある。役人の目を逃れ、農民達が祈りをささげた場所である。昨年の夏始めてその場所に立ったとき、私は神に祈るをささげることさえままならなかった人々の、生きるプライドと絶対の希求とも言うべき声なき声に、圧倒されてしまった。Madonina

 塾には、神棚が置かれ隣の壁には、幼きキリストを抱きかかえるマリア像が掲げられている。宗教的にはまったくもって節操がない私である。私自身本音を言うと、宗教はどうでもいいと思っている。神という言葉の実体は、行き着くところ宗教とは関係なく、同じ本質をさしているのではないかと思っているからだ。

 塾生たちを指導していると、時として神様についての質問がやってくることがある。「先生にとって神様って何ですか」こんな感じの質問だったりする。

 私にとって神様とは、「移ろわない心の底の真実」だと思っている。時代が変わっても、歴史が変わっても、変わらない絶対の真実、それが神のような気がする。

 人間は迷い彷徨う存在だ。神々しい風景をみたり、荘厳な空間の中で、人間は自分の本質や、生きる真実に触れるのではないだろうか。

 人間を思うとき、私はいつも空から降る雨を思う。美しい草原に降る雨、アスファルトにたたきつける雨、そして畑や田んぼを潤す雨。雨は大地を潤し、生きとし生きるものを潤し、そしてやがて蒸発し天に帰っていく。

 本によって生きる勇気を与えられたり、友人の一言に生きていく道を見つけたり、音楽に涙したり、ペットに癒されたり、神様は常に私たちのそばにいてくれる。豪華な神殿や、聖堂の中にいるのではない。

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