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2008年6月11日 (水)

言葉への責任

 20代の頃の感性や人生哲学が、40歳になっても50歳になってもあまり変わらないとおっしゃる方が多い。いかに20代までの勉強や読書、そして経験が大切かという証拠のような気がする。

 かく言う私もそうである。20代の自分と50近くなった自分がどう違うかと問われたならば、髪の本数が減ったことと体重が10キロ以上増えたことぐらいで、頭の中身やハートはそんなに変わったような気がしない。変わった点をあえて探すならば、言葉の重さを実感してきたことだろうか。

 若い頃と比べると、確かに言葉を選ぶようになった。教え子達もそうである。久しぶりに会って話をしたり、教室に立ち寄ってくれる卒塾生の話を聞くと、言葉の間の取りかたが学生の頃と違っている。確かに感覚的に言葉を選んでいる。そしてそれが大人になった一つの証なのかも知れない。

 最近はブログも、多くの人権団体が検閲チェックをしているのだという。差別用語や特定の団体個人を誹謗中傷するブログに対して、抗議文を送付したり、謝罪を求めるメールが来るという。

 1年弱、私もずいぶん言いたいことを書き連ねてきたが、幸いなことに謝罪を求めるメールだけは頂いていない。私のブログには、我が塾の社長(妻)の検閲があるので、暴走した時は躊躇なく公開がストップされる。過去にも書いたが、削除された幻の記事もいくつかある。

 言葉の責任は年を取れば取るほど重くなる。その影響力もさることながら、発する言葉がその人の人格として受け取られるからである。若い頃には許された発言が、その人の立場や職業によっては糾弾されることがある。

 「ついつい言葉のあやで」などと言い訳が許せない世界も多々ある。政治家などそのさいたるものであるが、教師の発言もしかりである。生徒の一生を左右しかねないときがある。その場の気分や状況に流された発言は注意したいものだ。それは自分に対する戒めでもある。

 生徒を叱るとき、励ますとき、言葉はすばらしい命の糧にもなるが、鋭利な刃物にもなりうる。言葉への責任、その自覚が我々には必要である。

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