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2008年6月17日 (火)

寺子屋の祖聖徳太子

 日本史の中で一番好きな人の名前はと言われたら、間違いなく聖徳太子だ。私は自他共に認める聖徳太子ファンである。

 どこが好きかと問われれば、全てである。いつからかは自分でも分からないが彼の文献やら、歴史書はほぼ読破した(図書館の本ですが・・)。全国にどれくらいの太子ファンがいるか知る由もないが、ベスト500ぐらいには入ると自負している。(ベスト1000かな?)

 我が家の仏壇の上には、聖徳太子の写真が鎮座している。それほど思い入れは深い。お釈迦さまよりもキリストよりも聖徳太子が好きな中年おじさんなど、いるはずも無いと思われるかも知れないが、ここにいる。

 彼は日本人の宗教観を確立した人物だと思う。太子は当時すでに旧約聖書も仏教も慎重に検証し、日本の風土にあった国家体制を模索していた。当時景教と言われたものは、旧約の思想そのものだった。はるかシルクロードより、西洋の思想と芸術が日本に伝播していた。

 法隆寺のエンタシスをご存知の方も多いだろう。ギリシャ神殿を彷彿させる形である。建築様式と共に多くのオリエンタルな思想が日本に入ってきたと考える方が自然ではないだろうか。オリエンタルと当時の国際国家中国隋の東洋文化が融合したもの、それが飛鳥文化である。

 厩戸皇子(うまやとのみこ)、これが聖徳太子の本名である。イエスキリストを想像する方も多いのではないだろうか。彼の人生には実に多くの謎が付きまとうが、用明天皇の息子である彼が天皇を引き継ぐことなく、叔母である推古天皇の摂政に甘んじたのには、歴史的権力争いの知られざる真実があったに違いない。

 近年、聖徳太子は存在しなかったという学者もいるが、実はそうなのである。聖徳太子という名前は、厩戸皇子が亡くなったあとに後世の人が名付けた称号である。したがって飛鳥時代に推古天皇の摂政をやった聖徳太子という人物は存在しなかったのである。

 ちなみに、聖徳太子の本名を日本書紀は厩戸皇子(うまやとのみこ)、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)とし、古事記は上宮之厩戸豊聡耳皇子(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)と表記している。

 飛鳥時代には、仏教を推進した蘇我氏と旧来の神道を遵守しようとした物部氏の壮烈な宗教戦争が繰り広げられた。蘇我氏が勝利を得て、蘇我氏の血筋を受け継ぐ聖徳太子は、仏教を中央集権国家を目指す組織作りに取り入れていく。まるでローマ帝国がキリスト教を国教にしていく経緯を彷彿とさせる、話である。

 聖徳太子は斑鳩宮に仏教を教える学問所を作る。日本で始めていわゆる塾を創設したのが、聖徳太子ではなかったかと思う。そして彼の意思は、遣隋使であった高向玄理や南淵請安に引き継がれる。請安は塾を開き、仏教や儒教を広げていく。

 私が聖徳太子の大ファンであることの理由が理解していただけたろうか。日本の文化に始めて塾の概念を作り、啓蒙を試みたのが聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ)なのではなかったかと考える。

 日本人が争いごとを好まず慎み深い国民性なのは、聖徳太子の思想の流れを無意識的に受け継いできたのではないかと勝手に想像する、聖徳太子ファンのかねごんなのである。

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