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2008年5月 7日 (水)

多数決は嫌いだった

 多数決が嫌いだった。子どもの頃から賛成多数の意見に従わなければならない状況というものに、ずっと違和感を持って生きてきた。今でもそうだ。だから一匹オオカミ的生き方が好きで、塾をやっているのかも知れない。

 私は多数決が正しい選択ではない時があるということを、なぜみんなが知ろうとしないんだろうと、小学生や中学生の時に思っていた。最後まで少数派の意見に固執するものだから、面倒がられることも多かったように思う。「多数決で決まったことだから」というフレーズに、怒りさえ覚えたことがある。

 数の論理という言葉が政治にあるが、少数意見を抹殺する国家は必ずいつか迷走する。過半数の数で物事の行く末を決めるということは、四割以上の反対があっても公然と無視されるということだ。時として、その反対意見が真実を述べていたとしてもである。

 この人に賛成しておけば自分が楽を出来るとか、この決定を支持すれば自分に都合がいいという気持ちが、多数決の心理には必ず付きまとっているように思う。そうじゃないだろうか。

 多数決をすれば、一番都合のいい人達の希望に叶う決定になるのが、目に見えている。そしてそれを民主主義と呼ぶならば、多数決の民主主義はすでに死んでいる。

 原子力発電所がなくならないのも、もういらない道路を一生懸命造るのも、多数決で決まるからだ。

 真実の意見というものがもし受け入れられてきたのなら、こんなに環境を破壊することもなかったろうし、160万人とも言われる引きこもりの若者を生み出すこともなかっただろう。

 アジテーションがうまくてリーダーシップがとれる人間が、いつも善人とは限らないところに、我々現代社会の苦悩がある。自分の利害をまったく考えず、時として犠牲にしてまで全体の利益と幸福を考える政治家が育たなければ、日本の社会に未来はない。

 そういった政治家が増えてこそ、初めて多数決が社会に反映される政治が行われるのである。

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