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2008年5月 5日 (月)

松を植えた男

 昭和50年の岩手日日新聞の特集記事である。

 宮城野から北上平野にまたがる丘陵地帯となっている花泉町のうちでは、海抜が一番高い場所にある刈生沢(かりゅうざわ)は、昔からしばしば冷害に襲われて米が実らない時があった。

 今からおよそ160年前ほどの文化11年、梅の木田屋敷の金田庄太左エ門という人は、当時肝いりだったが、部落の窮状を藩主田村宗顕(たむらむねあき)に訴え、こうしたやませや霜の冷害を防ぐために藩から松の苗木の交付を受け、部落の人たちを勧励して、三年間に三千本の松を西北の稜線およそ五キロにわたって植栽した。(中略)

 この松は部落の管理が適切だったこともあって、すくすくと育ち、大正時代には直径七十センチ程度の大木に育って、ちょうど三保の松原のように壮観であったといわれ、昭和五年ごろには大木1200本が存在していたという。

 春や秋の晩霜早冷にもあまり被害を受けず、部落は霜よけ松のお陰でようやくよそ並みの収穫をあげることが出来たばかりか、秋の味覚であるきのこ刈りの格好の場所でもあった。ヌラコ・初茸・アミコなどが沢山採れ、町に売りに行く人もあったほどで、この松が末永く繁茂し続けて欲しいと部落の人たちは願っていた。

 しかし、大正15年の秋に襲来した台風のために、多くの松が根かえしに倒れ、衰微の兆しが見え始めた。

 この後、昭和に入り、それまで部落の共有になっていたこの大量の立木が、金沢村所有財産に名義変更され、所有権や伐株の権利は村に移管された。部落ではあくまでも部落の共有であることを主張した人もあったが、刈生沢小学校の改築費用に当てることを条件に、村有となった。

 この松は、この後昭和11年に改築された金沢小学校校舎の梁材などに利用されたほか、火災後の同村役場の改築資材、更には戦後24年に焼失した金沢小学校の建築資材に利用されたのをはじめ、金沢小、刈生沢小の格屋体、金沢公民館の建築費の一部として伐株され、花泉町に合併になった31年頃には、一本も無く全部伐株され利用されている。

 今では以前と比べ稲の品種も改良され、冷害に強い品種が植えられるようになったが、今から百数十年も前には、こうして小さい苗木から育て、百年余りの年月を経てようやく天然の風除けがつくられたわけで、直接植栽した金田庄太左エ門をはじめとする当時の農民の悲願がいかに大きかったかが、このあと年々管理に当たった部落民の誠意と熱意が大木の並木を繁茂させたかという現実からも伺い知ることが出来る。

 江戸時代一介の百姓が、藩主に窮状を訴え出ることは命がけの事であったと思う。金田庄太左エ門は我が家12代当主であった(現在私が17代目である)。昭和50年8月24日の岩手日日新聞は、彼のひ孫である私の祖父と当時私も住んでいた茅葺の家を紹介し、紙面一面を使っての特集記事を組んだ。中学生だった私は、新聞記者の方や郷土史研究家の方々が連日訪問するあわただしさに、ただ驚いたのを覚えている。

 江戸時代に藩主より人足肝入りを命じられていた我が家も、明治時代になって没落する。私が生まれた頃は、旧家の面影など微塵もなかった。田植えを前にした集落の片隅に、金田庄太左エ門の功績を讃えた記念碑が静かに佇んでいる。温暖化の影響で、近年霜ややませによる農作物への心配はすくなくなったが、農業を継ぐ後継者がいなくなり休耕田が増えていく集落の様子を、松を植えた我が祖先はどんな思い出で見ているだろうか

追伸

ご不便をおかけしておりましたが、当ブログ及びセミナーへのメールが復旧いたしました。ご意見、ご相談、苦情等、気兼ねなくよろしくお願いいたします

         daiken@flute.ocn.ne.jp 

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