私にはお付き合いいただいている学校の先生方が何人かいる。大学時代の友人であったり、卓球仲間の教員の方であったり、塾生の親御さんで学校の先生だったり。
そういった先生方とお酒を飲むこともあるし、お互いの悩みを語り合うこともある。若い頃は私もとげとげしていたせいか、学校の先生方に対して少しバリアを張っていた感があるが、最近は自分で言うのもなんだが、とてもフレンドリーにお付き合いさせていただいている。
ブログでは、何度か学校批判をしてきたが、個人的な先生の問題というよりも、組織体や制度としての批判をしてきたつもりである。今月の初め、5月1日のメーデーの集会に、多くの学校の先生方が参加されていた。シュプレッヒコールを聞いていたが、先生方も制度の改革を多く望んでいるようだ。
教員免許の更新制度に対する反対や、1クラス30人体制の実現などのプラカードが目に付いた。確かにいくら能力があっても、40人クラスを持つのは大変なことだと思う。私など、一人で多くてもせいぜい10人ちょっとの指導である。それでも大変なときは大変である。
「学校の先生は塾の先生のように教えてくれない」という声を聞く。それを言われたら学校の先生はどうしようもないだろうと思う。特定の生徒だけを教えるわけにもいかないだろうし、学校での個人プレーを嫌う先生方もいる。そもそも学校の先生が、塾のようなシステムで教えられるのならば我々は廃業しなければならない。もしそうなったら、私などは本格的に有機農業を始めようかと考えているが・・・・・。
私はシュタイナー教育の影響を少なからず受け、小学生中学生に対しては、一人の先生が全教科を担当するのが望ましいと思い、なんとか全科目を担当している。じっさいシュタイナー教育では12年間が基本であるが、私の場合小5、小6から始まって中3までなので、4年~5年間だけである。
おそらくこのブログを読んでいただいている塾の先生や学校の先生も同意見だと思うが、教科を教えるということは、職業的にそれほど大変なことではないし、たいしたことではないはずだ。「全教科を教えるなんてすごいですね」などと言われるが、たとえば国立大学を出られた先生ならば、中学校や高校の基礎科目を教えるつもりならば全部教えられると思う。塾の先生がすごいわけでも何でもない。
先生と呼ばれる仕事にとって大切なこととは何だろうかと、長年考えそして模索してきた。30が過ぎ、40が過ぎそして50歳が近づこうとしているが、先生と呼ばれる年月が過ぎていく割にはどうも決定打は出てこない。がしかしちょっとは私なりに教師哲学みたいのは垣間見えてきたものがある。
先生とは師事してくれる人に、糧を与える仕事なんではないだろうかと思う。生活の糧、生きる糧、幸せの糧、希望の糧を。教えることは誰でも出来ることかも知れないが、この糧を与え続けることが先生の大事な使命なのではないかと思っている。私のブログにいつもすばらしいコメントを頂くとよ爺先生がいつも述べられているが、ブレのない軸がしっかりしている先生こそが、生徒達にこれらの糧を与え続けられる先生ではないだろうか。
軸がブレないと言うことは、教える立場のものが、学びや経験で培ってきた言わば実践哲学なり思想なりが、血となり肉となり、揺るぎのないものになっていることだと思う。組織内の勢力争いや、一時期の感情に左右されず、冷静に時代を見据えた指導が出来る先生こそが、今必要とされていると実感する。
それぞれの教育環境というものは、地域やトップに立つ人間で本当に大きく異なるものである。全国の教育ブログを拝見しているとそれは実感する。しかし先生と呼ばれる仕事の本質が、それによってさほど変遷するものではないと思う。経験と学びの糧を、我々塾教師は自分の哲学とすべく、時代を駆け抜けていかなければならないと思う。
追伸
1年近くブログを書き続け、多くのコメントを先生方や保護者の皆様からいただき、多くのことを学ばせて頂いた。おかげさまで今週アクセス人数が1万を超えようとしている。はじめは塾生や保護者の皆さんへの回報のつもりで始めた『大験セミナーわくわく日記』であったが、多くの皆様に読んでいただき感謝の気持ちでいっぱいである。知人や親しい先生方に、「よく毎日書けますね」と言われるが、正直いっぱいいっぱいではある。ゆえに無理することなく気長に綴って行きたいと考えておるしだいです。今後ともよろしくお願いいたします。
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