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2008年5月

2008年5月31日 (土)

寺子屋金さん第四話

 寺子屋金さんシリーズを書いていたときに、本当の寺子屋ブログに遭遇した。九州は福岡市の唐人町中学生寺子屋さんである。ちょくちょく拝見させていただいたが、内容もさることながら、文化遺産や、遺跡を紹介した写真がすばらしい。岩手にはない光あふれる風景である。私寺子屋金さんは、九州はおろか東京より南下したことがないので、まったくもって感動するのである。ブログでは、とよ爺先生の『とよ爺のつぶやき』に続き、『寺子屋ブログby唐人町中学生寺子屋』をリンクさせていただいた。ぜひごらん頂きたい。

 さて、市内では中間テストが終わった。中一の中学生ギャップをなくそうと、学校の先生方も必死である。実は金さんにも中一の息子がいる。テストの前日だというのに、スタンドバイミーを口ずさんで余裕をぶっこいている。金さん親父のジャズ好きの影響だろうが、勉強は二の次のようで困ったものである。

 寺子屋金さんに通ってきている中一は、現在数こそ少ないが、小学校から持ち上がってきた少数精鋭部隊である。金さんが自慢するのもなんだが、まれれにみる努力家で、成績もすばらしい。塾内実力テストでは、同じ問題でありながら中3生をしのぐ子もいる。寺子屋金さん期待の星である。

 中3の中にもつわものがいる。金さんが先日『宇宙人の独り言』という怪しいブログをしたためたところ、ある生徒より「寺子屋金さんは、神様と名乗っているのは宇宙人で、キリストもモーゼに十戒を与えたのも宇宙人だと思っているんですか」と突っ込んできた。それを聞いたとある中3生の発言である。

 「あながち誇大妄想とも言えない気がする。たとえば猿人が現在の我々の子孫と言われるクロマニヨンに進化する過程の人骨や、化石が発見されていない、ミッシングリングの問題がある。科学者の中には、宇宙人によるDNAの人口交配がなされたのではないかと、真剣に遺伝子の研究をしている学者もいるらしいよ」

 さすが寺子屋金さんの塾生達である。類は友を呼ぶ。塾生の個性も強烈である。

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2008年5月30日 (金)

200回目のつぶやき

 ブログの記事も200回目を迎えた。塾の日々の様子を書くつもりが、教育論や政治論など自分のテリトリーを逸脱した話をずいぶんしてきたような気がする。調子に乗りすぎ、秘書(妻)の検閲に引っかかり削除した記事もある。俗にいう幻の記事である。

 学生の頃からくちべただった故、逆に文章を書くのは好きだった気がする。きっと東京に出て行く多くの田舎人が経験することかもしれないが、あの都会の華やぎのな中、圧倒される人の中で、沈黙の風が吹いてくるのは私のような田舎ものにとってごく自然なことで、それゆえコツコツと思考だけが先走りしていく感覚があった。

 こうやってブログを書く状況に置いてもやはりあの頃の習慣は抜けきらず、世間をちょっとはずれの方から眺めては傍観者を装い、その実本当は人ごみの中央に佇みたい自分がいたりする。

 毎日のように繰り広げられる人間の軋轢(あつれき)や、理不尽さそして悲しみや退屈。そういった日常の中で、自分のスタンスを保つということはとても難しいもの。これは年齢や性別や経験に関係なく、毎日瞬間瞬間のチョイスが訪れ、試されていく。言葉や思考やまなざしが、時に大きな力となり、また時には大きな痛手にもなる。

 先生という仕事は指導のマニュアルはあっても、生き方のマニュアルはどこにもない。生徒に教えているつもりが、いつの間にか教えられていたりする。また生徒に話している人生訓のつもりが、自分への励ましであったりする。とても繊細で、それでいてとても横柄な存在、なんか自分を客観的にみるとそんなやつじゃないかと思う。

 ブログを書き始めて気づいたことがある。自分の考えていることを書こうとすると、+と-の自分が現れてくる。たとえば走ろうとする自分と、止めようとする自分。怒ろうとする自分と、なだめようとする自分。ジキルとハイドではないが、文を書くという作業は内面の葛藤が生じるものなんだなということをあらためて認識した。

 だいたい私は1回のブログで、原稿用紙二枚ちょっとの分量を書く。昨年の8月に始めて、500枚弱ぐらいの駄文を書いてきたことになる。実はほとんどのブログは、一度わら半紙にしたためてからPCに打ち込む。直接PCに打ち込むと思考のテンポが変わり、考えが浮かんでこなくなる。手書きの文章に慣れ親しんできた思考の速さは、この歳になると変えられないようだ。

 さてこの200回目のブログを書くにあたり、今までどの記事が一番ヒットしたのだろうかと、アクセス解析をしてみた。思わず笑ってしまった。なんとわずか6行の一番短いブログ、『ショック パソコンが!』が1位だった。そうである、先月パソコンが壊れメモリーが全て消えてしまった悲劇の話である。ブログを見ている人達はもちろんPCを使っているわけで、人事ではなかったのだろうと思う。

 皆さん、もしアクセス数を増やしたいならば、パソコンの悲劇を書くといいかも知れません(・・笑い)。201回目以降もどうかお付き合いいただければ幸いです。かねごんでした。

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2008年5月29日 (木)

イギリスか・・・・・

 昨日私がさりげなく教室で、ため息混じりに社長兼、秘書兼、妻(?)に、「20年近く毎日教室と自宅の往復ばかりで、どこも行ってないな~」と何気なくつぶやいてしまった。

 実は結婚以来22年という歳月が無事(?)過ぎたのであるが、プライベートで2泊以上の旅行を一度もしたことがないのである。近くの温泉や、仙台に本当にまれに行くぐらいである。近年は、神奈川の家内の実家にも久しくご無沙汰をしてしまっている。

 確かに子ども達も大きくなると親とは出歩かない。昨今のようにガソリン代も高くなると遠出もままならない。おのずと休みの日は、引きこもり家族になってしまう。実はこの歳になるまで、長野より西に行ったことがない。北は新婚旅行で行った札幌までである。若い頃から出不精であったし、学生の頃は授業料やら飲み代やらを稼ぐのに忙しく、バイトの日々だったゆえ、旅行など皆無だった。

 今日から中間テストが始まるので、昨夜は10時過ぎまで指導をしていた。家に11時をだいぶ過ぎて帰宅したのであるが、妻が「お父さん、パスポート作ってイギリスにでも一人旅に行ってきたら」とマジ顔で、旅行代理店のホームページを検索している。自動車税を払うのにも苦しんでいるこの私に、そんな余裕はないのだが、確かに外国にでもぶらりと行ってみたい気分である。

 私だけが感じることなのかも知れないが、何か世の中の歯車がかみ合ってないような気がする。政治も教育も福祉もそして社会そのものが。口ではうまく言えないが、何かどよ~んとしたものが世の中を覆っている。トップに立つ人間が歯切れが悪いのか、我々大人が全体的に疲れているのか、明るくない。

 些細な事で腹を立てる人が多くなった気がする。子ども達も近年何かにいらいらしている。人生のチャンスというか、飛躍の機会が少なくなったせいだろうか。IT産業を中心として、華やかな躍進を遂げている企業や業界も多い。しかし情報社会となった現代、様々な情報が分析そして解析され、世の中の動向が分かるようになってきた。

 受験もそうである。模擬テストの結果を見ればご丁寧に進路変更のアドバイスまで書かれている。会社に入れば、自分の生涯年収やら、退職後の年金受給額までパソコンははじき出してくれる。誰も無茶をせず、情報に管理された社会が安全なのかも知れない。しかし、面白みがない。

 旅行でもそうだ。お金さえだせば、全ての手配を旅行代理店がしてくれる。波乱やドキドキ感がありすぎても大変なのだろうけれど、やはり全てが用意されている社会はつまらないと思う。そいう意味ではイギリスへの逃亡もいいかも知れない。しかし帰ってきて、塾生がいなくなっていては、今度は人生から逃亡する羽目になってしまう。・・・・・やっぱりやめておこう・・・・。

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2008年5月28日 (水)

大人の人と話した方がいいよ

 365日、20年近くほとんど中高生と話してばかりいるので、正直大人の方と話をするのが苦手である。保護者の方と話をするのも実は苦手である。でも仕事柄頑張っている(・・笑い)。

 本来は話しべたで、人見知りのするタイプの人間なのに、よくもまあ塾教師という仕事を続けてこれたものだと自分でも思っている。友人や知人とも、正月の年賀やメールのやり取りぐらいでなかなか会う機会もなく、精神的(?)なお付き合いはしているつもりだが、物理的には友達が少ないのが現状だ。

 最近は息子達も大きくなりあまり私と遊んでくれないので、猫や犬を相手にしゃべっている実に寂しい中年おじさんである。

 一応先生という職業のカテゴリーに入るためか、いつも何か意見を求められる状況というものがあって、ついつい何か立派なことを言わなくちゃいけないのかなと思ってしまう悪い習慣が身についてしまった。家内には「あなた私としゃべるように人としゃべれないの」と、お叱りをうける。そうなのだ。なぜか大人と普通にしゃべれない。病気?・・・だと思う【・・笑い】。

 本当は私もいろいろな悩みがあって、いろんなことをいろんな人に聞きたいのだが、物理的な制約が多いゆえ、ついつい本ばかり読みあさり頭でっかちになってしまう。書を捨て町にでよではないが、息抜きの必要性は我ながら感じた。

 そう言うわけで、このブログも最初は息抜きのつもりだったのだが、また悪い習慣病で、何かためになることや立派なことを書かなきゃいけないのかな~などと思ってしまい、どつぼにはまってしまう。

 実験的に『寺子屋金さん』や一昨日の『宇宙人の独り言』などの、本来の私のキャラの作品?を提示してみたりするのだが、予想通り皆さんの反応はない【・・笑い】。そうか私の求められているキャラではなかったかと思いつつ、またブログのネタ探しに、本の旅に出たりしてしまう。困ったものである。

 このブログを書いている横で、また家内の声。 「あなた、どこか出かけて人と話してきなさい」。  でも俺この時間、話す友達いないのに・・・・・・・

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2008年5月27日 (火)

再びケイタイについて

 私が何度も何度もケイタイ電話の功罪について、塾で述べてきたし、このブログでも書いてきた。ようやく何人かの賛同者が塾でも現れてきた。

 我が塾に通ってきている中学生は、高校に入るとほぼ100%ケイタイを所有する。昨日高一のA君が、自宅に電話をするのに一緒に来ていた妹からケイタイを借りていた。私が「お兄ちゃんケイタイ忘れたのか」と尋ねると、「お兄ちゃんケイタイ要らないんだって、メールはパソコンで見るからいんだって」。

 ここぞとばかりに、周りにいた中高生に私が演説をぶつ。「お前達1日に何度メールをチャックするんだ。その中毒症状から脱しなければならない。家にPCがあるのなら、朝と夜にメールをチャックすればいい。先生はケイタイを持たないが、PCがあればなんの不自由もないぞ。緊急の用があれば、学校に電話もあるだろうし、塾にだってちゃんと電話はある。」

「かねごん先生は自称宇宙人だから、ケイタイがなくてもピピット交信できるからいいだろうけれど、僕たちはそうはいかないんだよ」と反撃されてしまった。

 新聞各誌が取り上げていたが、小学生、中学生のケイタイ使用を法的に規制しようという発言が公に出てきた。また規制だ。学校や家庭で、ケイタイやPCの教育をしっかりやらずに、社会問題になってしまった物を即規制という法律手段で決着つけようとする。論点のすり替えである。

 便利なものがどんどん出てくる。そのたびに規制を続けていくわけにもいかないだろう。進化し続けるインターネット。それを使うのではなく、使われてしまっている現状。自分の政党を宣伝するお金があれほどあるのなら、なぜ教育や福祉で問題になっている課題にもっとお金をつぎ込み、啓蒙運動をしないのだろうか。

 技術の進歩に人間の精神が追いついていかないのは、教育が追いついていっていないのである。ケイタイを持たない我が塾の中3生が私に語った。「俺ケイタイもってないから、友達とメールできないし、つまんないんだよ。法律でみんな使えなくなるといんだよ」。

 親が断固としてケイタイを中学生に持たせないのはすばらしいことだと思う。しかし、持たせられている子ども達の教育を投げ出して、知らん振りの大人や親は反省するべきだ。持たせるなら、子どもの管理をしっかりやって欲しい。法律以前に親がやらなければならない義務は多くある。

 学年で最下位に低迷するほとんどの中学生が、ケイタイを与えられている。トップの子も持っているではないかとの反論もあるだろうが、そういった家庭ではしっかりとケイタイの使用を管理している、本人も家族も。子どもや親が言わないだけである。もう一度家族でケイタイについて話し合ってもらえれば、幸いである。

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宇宙人の独り言

 同じ地球という星に住んでいながら、神様の種類やものの考え方の相違から、拳銃を突きつけあい、時に戦争までしてしまう人間。争いのきっかけは、食べ物の奪い合いだったり、トップに立つ人間のプライドだったり、不思議な生き物である。

 地球の恵みを一握りの人間が独占してしまう悲しみ。地球の自然を自己の欲望のために荒廃させてしまう愚かさ。困りごとがあると神様に頼り、何を勘違いするのか自分が神様にでもなったかのような幻想を抱く狂信者がたわごとを言う。

 よく観察をしていると、時としてすばらしい啓蒙家や宗教家も現れる。だが残念なことに、いつの間にか権力者達に都合よくあしらわれ、気骨のある知識人は消滅する。

 時に、見るに見かねた私たちの仲間が地球に降り立ち、救いの手を差し伸べようとしたこともあるが、磔にされたり、魔女裁判にかけられたりして退却してきた仲間もいる。よせばいいのに神様のふりをして、PC言語を使って書いた本を手渡したら、後生大事にしてくれるのはいいのだけれど、その本の解釈をめぐってまた争いごとが起きてしまう。まあ、ようやくあの本が、コンピューター言語だということに気づいた地球人もいるようだが、予言とか言って騒いでいるが、まだ本当の使い道に気づいてはいないようだ。

 人間は我々の文明を100レベルとすると、7~8レベルまでは何とか進化していくのだけれど、10近くになると精神が追いつかなくなり、自ら自爆してしまう。時に原子爆弾で自爆したり、エネルギーの誤用で自らの文明を無に帰してしまう。

 それからジョークのつもりか知れないけれど、地球人はよく我々の似顔絵を描く。タコの顔だったり、我々が海洋動物園で飼育しているちょっと人間に似た動物を見つけて、グレータイプとか勝手に名前を付けて騒いでいる。おもしろい。

 それから地球には学校と呼ばれるものがある。地球の子ども達が、言語や物理学の基本や音楽などを習うらしいが、この教育というシステムもかなり原始的で、地球人の悩みの種のようだ。またそれをサポートする塾などというものも、日本とかいう国にあって宇宙人がいるとかいないとか議論をしているところもあると聞いている。

 一番驚いたのは、地球には国境とかいう危険な目に見えないバリアがあるということだ。実はこれが人間の進化を一番阻害しているもので、全ての諸悪の根源だというレポートさえある。

 レポートと言えば、だいぶ前かねごん宇宙人が、塾とかいう教育の視察をすると言って地球に行ったきり戻ってこない。レポートと称して、ブロブとかいうものを送ってはくるのだが、毎日分けの分からないことを書いてくる。困ったものだ・・・・・

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2008年5月26日 (月)

不変のテーマ

 「どうすれば成績が上がるのでしょうか」教育にとって不変のテーマである。私は「素直な子どもが伸びますね」とお応えするのであるが、本音を言うと私もこの答えの真実は実は分からない。模索状態が数十年続いている。

 「伸びる子は勝手に伸びる」 そんなことを言ってみたいのだが、それではプロとしてのメンツが立たない訳で、ない知恵を搾り出し考えるわけである。最近は脳科学に興味を持ちだし、いろいろと読んではみたりしている。最近の私のブログの中にやたら脳の話が出てくるのはそのためである。

 職業柄一番興味があるのは、受験勉強などで必要とされる暗記のメカニズムについてである。俗に私達が日常、あの子は頭がいいと言う場合には、暗記力をさすケースが多い。いかに必要なものを脳の中に取り入れ定着させられるのか、そのメカニズムが分かれば受験指導も楽と言うものである。

 しかしこれがなかなか一筋縄ではいかない。我々は教科を教えて月謝を頂いているわけだが、多種多様のメタファーと、多種多様の褒め言葉と、多種多様の人生訓話が日々入り乱れ錯綜し、煩悩の葛藤と正義感のせめぎ合いの中、生徒と格闘しているのである。

 学校で一ヶ月を要する教科の内容をわずか15分ほどで伝授できた時は、自分が天才に思えたりする。一方学校で3日もあれば理解できる内容を、1年かけても理解してもらえていない時は、自分のアホさ加減に絶望する。そんな日々の格闘である。

 なぜ分からないのか、それが分からないときは、さすがに私も人間なので落ち込むときは多々ある。たとえば塾内の専門用語で四天王と呼ばれる生徒が、たまに迷い込んでくる。はっきり言ってしまうと、学年で回れ右してトップの子である。入塾テストなどを施している塾では迷い込んでくることもないだろうが、我がセミナーは来るもの拒まず去るもの追わずの姿勢を貫いているゆえ、進学塾というポリシーをちょっとだけだが、ほのめかしているにもかかわらず縁あってやってくるのである。

 塾生曰く 、「大験セミナーという名前って言うか、看板を見ればわかりそうなものだけどね」ということらしいが、残念ながらそのネーミングの意味もひょっとしたら全然理解してくれていないのだろうと思う。失礼だがそういう子を指導していると、逆に伸びる子どもの本質が見えてくることもある。

 中3になって、英語の小文字が書けない、小学校の掛け算ができない。そんな生徒を見ていて確実に言えることは、そういう子どもは勉強をするという意味を理解していない。つまり学習する動機付けがまったくと言っていいくらいないのだ。失礼千万な表現かも知れないが、親御さんも同じ状態である。

 成績が伸びる子は勉強の動機付けが強烈にインプットされている子どもである。親御さんや家庭での教育を通じ、それが見事に植えつけられている子どもは、なぜ勉強が必要なのかを理解し、自分なりに咀嚼(そしゃく)している。ゆえに成績がいい。

 小さい頃から達成すべき目標設定を与えられ育ってきた子どもと、それがなく育てられてきた子どもの差は大きいような気がする。

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2008年5月25日 (日)

先生と呼ばれる仕事~続編~

 最近学校を出たばかりの塾教師の方と話す機会があまりないので、今の現状を把握しきれていないが、かつて私が塾教師になった頃は、よく親戚に「来年あたりは教員採用試験を受けるのですか」と聞かれたものである。塾の先生は、教員になるまでの繋ぎの職業という認識が世間一般にあったようだ。

 実は私は教員採用試験を一度も受けていない。ずっと塾教師をやってきてしまった(・・・笑い)。途中辞めようかと思ったことも何度かある。このことについては何度かブログにも書いてきたのでかつあいさせていただくが、まあ生粋の塾教師である。

 若い頃酔った勢いで教師批判をした時に、「お前達塾教師は、学校の先生のなれ損ないの輩の集まりだろう。えらそうなことを言うんじゃない」と言われ、血の気の多かった私は、相手のむなぐらを掴んでしまったことがある(現在はそんな暴挙はしませんのであしからず)。昔の話ではあるが、田舎での塾教師の評価はそんな感じであった。

 大学を出たときも、塾教師という職業を選んだのは全体で二人だけだった。今は母校の回報を読むと、塾や予備校に就職する学生もだいぶいるようだ。「学校の先生よりも塾の先生の方がいい」などと言う学生も多くいるらしい。時代の変遷を感じてしまう。

先日、フランチャイズ塾の経営戦略に関する本を読んだが、○○式教室や○○ゼミナール等のフランチャイズの説明会が開かれると、多くの脱サラ希望のサラリーマンの方や子育てを終えたお母さん方が集まるのだという。

 企業側の本音が垣間見られるが、10の教室がロイヤルティーを払い開校にこぎつけても、3年後には半分が消え、10年後には一つぐらいしか残らないのが実情だそうだ。フランチャイズに限らず、だいだい我々の業界の存続率は似たようなものではある。

 ビジネスとしてだけ塾経営を考えてしまうと、利益率や稼働率等をどうしても考えてしまい、そこばかりに意識がいってしまうのではないだろうか。塾経営コンサルタントなどの本を読むと、簿記を学ばない経営者は失格であるとか、市場調査をしない経営者は落第である等のお言葉が連ねてある。その点からいくと、私など開校3年で消えてしまう部類に入るダメ経営者ということになるが、金儲け主義で塾を始められる経営者は、長続きしないようだ。

 教育をお金儲けと考える以上、教育の理念はお金第一主義で構築されることになる。そんな理念が通用するほど教育市場は甘くない。成功している大手塾企業は、見えないところで実に多くの社会貢献をしている。利益第一主義で伸びてきた塾が、近年ことごとく失脚して来ているのは、社会に対する還元や、人に対する優しさを忘れてしまった企業だと思う。

 我が塾に置いて、「先生、私も将来先生のような塾をやりたいな~」という教え子がいたりする。嬉しい反面、なかなか心から薦めることができない複雑な心境ではある。

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バラエティー番組からの打診

 先日日本テレビより、当セミナーの塾生を対象に、中学生の恋愛相談をテーマにしたバラエティー番組を撮りたいとの打診があった。塾生及び保護者の皆さんの了承を得られれば、検討してみたいとの返答をしたが、全国ネットのそれもゴールデンタイムの番組ゆえ、慎重をきして事案にあたりたいと考えている。

 テレビという媒体の恐ろしさは、私も少なからず認知しているつもりだ。たとえばラーメン屋さんの話しがある。田舎でひっそりとラーメン屋さんを営んでいた店が、ある日テレビで紹介され行列のできるラーメン屋さんになった。

 お客さんが毎日遠くからやってくるのであるが、いつも食べに来ていた地元のお客さんが、のんびり食べることができなくなり、主人とのいつもの世間話もままならなくなった。だんだんと昔からの常連客が去って行った。

 人のうわさも何とやらで、番組の影響も半年もたつと消えていき、遠くからやってくる客の数も少なくなった。昔の常連客が戻って来たかと言えば、彼らはすでによその店に流れていってしまっていた。閉店を余儀なくされるお店が多くあると聞く。

 かつて民放FM各局で(と言っても東北だけだが)、私の曲がオンエアーされたことがあった。塾生や親御さん方から、おかげさまで好評を得ることができた。しかし今度はテレビという媒体に当塾の塾生及び塾そのものが露出するわけで、話をいただいたことは嬉しいが、正直戸惑いもあり、恐れもある。

 受験勉強に集中し始めた時に、タレントの方がやってきて塾の周りが騒がしくなるのもどうかという気持ちもあるし、メディアに露出することで子ども達が浮かれ気分になるのも否めない気がする。具体化するまで、時間をかけじっくり検討していきたいと考えている。

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2008年5月24日 (土)

先生と呼ばれる仕事

 私にはお付き合いいただいている学校の先生方が何人かいる。大学時代の友人であったり、卓球仲間の教員の方であったり、塾生の親御さんで学校の先生だったり。

 そういった先生方とお酒を飲むこともあるし、お互いの悩みを語り合うこともある。若い頃は私もとげとげしていたせいか、学校の先生方に対して少しバリアを張っていた感があるが、最近は自分で言うのもなんだが、とてもフレンドリーにお付き合いさせていただいている。

 ブログでは、何度か学校批判をしてきたが、個人的な先生の問題というよりも、組織体や制度としての批判をしてきたつもりである。今月の初め、5月1日のメーデーの集会に、多くの学校の先生方が参加されていた。シュプレッヒコールを聞いていたが、先生方も制度の改革を多く望んでいるようだ。

 教員免許の更新制度に対する反対や、1クラス30人体制の実現などのプラカードが目に付いた。確かにいくら能力があっても、40人クラスを持つのは大変なことだと思う。私など、一人で多くてもせいぜい10人ちょっとの指導である。それでも大変なときは大変である。

 「学校の先生は塾の先生のように教えてくれない」という声を聞く。それを言われたら学校の先生はどうしようもないだろうと思う。特定の生徒だけを教えるわけにもいかないだろうし、学校での個人プレーを嫌う先生方もいる。そもそも学校の先生が、塾のようなシステムで教えられるのならば我々は廃業しなければならない。もしそうなったら、私などは本格的に有機農業を始めようかと考えているが・・・・・。

 私はシュタイナー教育の影響を少なからず受け、小学生中学生に対しては、一人の先生が全教科を担当するのが望ましいと思い、なんとか全科目を担当している。じっさいシュタイナー教育では12年間が基本であるが、私の場合小5、小6から始まって中3までなので、4年~5年間だけである。

 おそらくこのブログを読んでいただいている塾の先生や学校の先生も同意見だと思うが、教科を教えるということは、職業的にそれほど大変なことではないし、たいしたことではないはずだ。「全教科を教えるなんてすごいですね」などと言われるが、たとえば国立大学を出られた先生ならば、中学校や高校の基礎科目を教えるつもりならば全部教えられると思う。塾の先生がすごいわけでも何でもない。

 先生と呼ばれる仕事にとって大切なこととは何だろうかと、長年考えそして模索してきた。30が過ぎ、40が過ぎそして50歳が近づこうとしているが、先生と呼ばれる年月が過ぎていく割にはどうも決定打は出てこない。がしかしちょっとは私なりに教師哲学みたいのは垣間見えてきたものがある。

 先生とは師事してくれる人に、糧を与える仕事なんではないだろうかと思う。生活の糧、生きる糧、幸せの糧、希望の糧を。教えることは誰でも出来ることかも知れないが、この糧を与え続けることが先生の大事な使命なのではないかと思っている。私のブログにいつもすばらしいコメントを頂くとよ爺先生がいつも述べられているが、ブレのない軸がしっかりしている先生こそが、生徒達にこれらの糧を与え続けられる先生ではないだろうか。

 軸がブレないと言うことは、教える立場のものが、学びや経験で培ってきた言わば実践哲学なり思想なりが、血となり肉となり、揺るぎのないものになっていることだと思う。組織内の勢力争いや、一時期の感情に左右されず、冷静に時代を見据えた指導が出来る先生こそが、今必要とされていると実感する。

 それぞれの教育環境というものは、地域やトップに立つ人間で本当に大きく異なるものである。全国の教育ブログを拝見しているとそれは実感する。しかし先生と呼ばれる仕事の本質が、それによってさほど変遷するものではないと思う。経験と学びの糧を、我々塾教師は自分の哲学とすべく、時代を駆け抜けていかなければならないと思う。

追伸

 1年近くブログを書き続け、多くのコメントを先生方や保護者の皆様からいただき、多くのことを学ばせて頂いた。おかげさまで今週アクセス人数が1万を超えようとしている。はじめは塾生や保護者の皆さんへの回報のつもりで始めた『大験セミナーわくわく日記』であったが、多くの皆様に読んでいただき感謝の気持ちでいっぱいである。知人や親しい先生方に、「よく毎日書けますね」と言われるが、正直いっぱいいっぱいではある。ゆえに無理することなく気長に綴って行きたいと考えておるしだいです。今後ともよろしくお願いいたします。

 

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2008年5月23日 (金)

言葉の栄養

当セミナーが4年前より幼児教育、風と虹の教室をスタートさせた背景には、切れやすく情緒不安定な子ども達が学校で増えているという、憂慮すべき問題がクローズアップされてきたことにある。

 特に生まれてすぐ保育所や託児所に預けられる子ども達が増加してきた近年に置いて、くしくも学級崩壊等の教育問題がまるでリンクでもしているかのように増加してきた。また子どもの言動もさることながら、耳や目を疑うようなモンスターペアレントも増加してきた。

 失礼かも知れないが、今の若い親御さん達は、私たちの頃に比べると高級自動車に乗り、ブランドの服を身にまとい、そしてモダンなアパートやマンション住まいが多い。お金がかかるゆえに、共働きも必要になってくる。そして子どもと接する時間が極端に減ってきている。

 最近の脳科学は日進月歩の感がある。MRL(磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射画像測定法)などの医療先端技術によって、様々なデーターが解析され脳の働きが解明されてきた。

 研究によると、難しい問題を解いている時よりも単純な計算をしている時の方が、脳は活発に動いているのだそうだ。また漢字を見て覚えるよりも、書いて覚えようとしている時の方が広い範囲で脳が活性化され、脳がもっとも活動するのが文章を音読している時なのだという。

 0歳~3歳までに、脳の90%が完成されることも分かってきた。誕生時に約400グラムある脳の重さは、3歳ぐらいで1200グラムほどになり、この重さは成人の重さの90%に相当する。その急速な脳の発達途中で、テレビに子守をさせたりゲームを与えることで、脳の発達が著しく阻害されるという報告がなされている。のんびり公園を散歩したり、何気ない親子の会話が、究極の英才教育であることを忘れてはならない。

 どうだろうか、それでもやはり赤ちゃんを託児所に預けて働きに出たいだろうか。経済的にやむなしという状況もあるだろうが、せめて2歳までお母さんには家にいて欲しい。

 赤ちゃんのオムツを替える時に、母親ならば「あら~うんちいっぱいしてましたね、えらいですね~」 「さあ取り替えますよ、気持ちいいですか」など声をかけるものだ。我が妻も息子のオシメを替えると時はそんな感じだったと思う。多くの赤ちゃんや幼児を見なければならない託児所の保母さん達に、この余裕はあるだろうか。黙々とオシメを取り替えている姿が私には見えてきてしょうがない。

 コミュニケーションの不足が、学力の低下を招いていると主張する研究者も多い。言葉をかけてあげるということは、子どもに魂の栄養を与えることだと私も常々主張してきた。

 脳の神経細胞は、大脳皮質にあるだけでも約140億個と言われている。この数は赤ちゃんから大人になるまで変わらない。個人差もない。生まれたばかりの赤ちゃんの頭の中では、1分間に何百万個もの神経細胞が作られ、ネットワークが構築されていく。そして生後7ヶ月でほぼ脳のベースが出来上がる。その大切な時期を親が関与せずして、こどもの教育は語れないのである。

 どうか若い親御さんの皆さん、若い頃はお金がないのが普通です。貧乏なのが普通です。子どもといてあげてください。

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2008年5月22日 (木)

鉛筆派それともシャープペン派

 ほとんどの中学生や高校生はシャープペンを使っている。たまに鉛筆のみを使う塾生もいる。理由を聞くと、鉛筆を削る感覚が好きなのだとう言う。なるほど。実は私もシャープペンは苦手である。前回のネクタイの話といい、苦手な話ばかりで恐縮だがそうなのである。

 シャープペンの何が苦手かというと、書くときのカリカリ感である。芯が細いゆえのあの金属的な音が耳に良くない。次に芯が詰まった時のいらいら感である。せっかく調子に乗って書いているときに中断されるあの瞬間がむかつく。まれにシャープペンを使うときがあるが、使っても、0.7ミリの芯である。ゆえに教室にはもちろん0.3ミリなどと言う超ミクロンな芯などないわけで、いつも生徒は隣の塾生よりもらっている。

 私が始めてシャープペンを見たのは小学校の5年の時だった。当時アンパンが30円の頃、シャープペンは500円だったと記憶している。とても高かった。ゆえに裕福な家の子どもしか持っていなかった。芯を出すあのカチカチという音に、憧れたものだった。それ以来シャープペンは高価なものという固定観念が私の中に刻み込まれてしまったようで、変な劣等意識をシャープペンに持ってしまったような気がする。

 受験ではHBの鉛筆を塾生に勧めている。いや勧めているのではなくて、全員にあげている。駒形神社で合格祈願をしていただいた合格鉛筆である。15年以上続いてる、当セミナーの名物鉛筆である。毎年脅威的な合格率をほこるアイテムとして重宝がられている。(あまり宣伝をすると他の塾に真似られてしまうが・・・・・・・

 最近ペン回しが再びブームになっている。実は私はペン回しブーム第一期生の世代で、ついつい癖でくるりんくるりんと回してしまう。塾生が私のペン回しに目がいってしまう、やっちまった、まずい!と思ったときには手遅れで、テクニックの質問攻めにあってしまう。かつて、とよ爺先生のブログで、多くの先生方がペン回しの批判をされていたの読んで、かなり冷や汗ものでした・・・・・。(きっと私のような塾教師がいるので変な習慣が受け継がれていってしまうのだと思います。全国の先生方申しわけございません)。

 聞くと、ペン回しがしやすいシャープペンを買う生徒もいるとかで、とほほである・・・・・。

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部活延長

 昨日の雨とうって変わって今日は清々しい一日だった。『風と虹の教室』に通ってきている3歳と4歳のケンちゃんとリュウちゃんは、私のことを2階のおじちゃんと呼ぶ。公園から木の枝を拾ってきて釣竿を作るというので、あまったY字形の木の枝でスリッパ星人なる宇宙人を作ってみたが、「おじちゃんその宇宙人汚いよ」と言われ面目もなく、やることもなかったなのでそばの川の土手を散策しに出かけた。

塾の裏手が県立一関一高の校舎であるが、いつも何人かの先生が堤防まできてタバコを吸っている。他の学校同様敷地内全域禁煙ゆえ、わざわざ堤防まで出てきて吸っているのである。涙ぐましい努力である。

 昨日の大雨で上流より流れてきた流木が、あちこちに打ち上げられている。最近ではこの流木を利用したアートも盛んなようで、一生懸命形の良い流木を拾っている方もいる。ヒバリが数羽ピーチクパーチクと鳴きながら飛んでいる。合唱の歌声も教室から流れてくる。のどかでいい気分だ。

 そういえば昨夜は満月で、田植えを終え水が張られた田んぼに、満月の月が浮かんで幻想的だった。塾教師にとっては暇すぎて手持ちぶたさの日々だが、それゆえにのんびりと夕暮れの散歩も出来る。山の景色も新緑ですばらしい。

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中総体の大会に向け、各中学校では今日から部活動の延長が始まった。ほとんどの塾生が運動クラブに入っているので、塾に来るのも遅くなる。これから一ヶ月間私にとっては英気を養う時期でもある。

実は日々人にものを教える仕事というのは、確実に教えることで知識が流失していく。充電をしないと完全に枯渇してしまう。昨年度の入試問題を研究したり、塾生の昨年度の指導ノートを読み直したりと、やるべきことはある。しかしついつい、自習室に降りていき気になる本を読んだりして、あっと言う間に時間がたってしまい、生徒がやってくる。困ったものである。

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2008年5月21日 (水)

スピリチャルの時代

 オーム真理教の地下鉄サリン事件以来、カルト宗教による社会問題が減少傾向にあったが、近年またカルト宗教による被害が増加しているのだという。

 スピリチャルブームを反映して、テレビ格局では霊界ものや、占い、守護霊などを扱った番組が増え、日常の会話の中で神様や霊界の話をするハードルが非常に低くなった。宗教団体による信者の勧誘等がやり易い状況が生まれている。視聴率が取れるという理由だけでははないだろうが、確かに霊能関係の特番やレギュラー番組が増えているようだ。

 私は塾でもブログでも言ってきたことだけれど、この手の職業でお金儲けをしている99%の輩は、詐欺ペテン師のたぐいである。人の弱みに付け込み、そして不安を煽り誰も立証できないほら話を並べ立てる。努力がなかなか報われない不安定な社会構造が、多くの人達をそういった世界に引き寄せているのだろう。

 実に多くの経営者の方が、商売の際の方位や日時、そして風水を気にする。私の周りにもそういった方々が多くいらっしゃる。こんな話を塾の卒業生から聞いた。ホテルやスパーなどのため土地を購入するさいに、霊能者なる方を連れてきて霊視をしてもらい、不浄の霊がいるかいないかを見てもらうのが、今や業界では常識なのだそうである。私も聞いてびっくりした。そこまで業界も進んでいるのかという感がある。

 まさに困った時の神頼みである。実は私も霊能者である(・・笑い)。こんなことを書くとまた我が家のご意見番に叱られるのであるが、私はよく神の声を聞く。たとえば「あなた早く起きなさい」とか「洗濯物干しておいてね」とか・・・・・。いなかでは女房のことを山の神と呼ぶ。したがって私にはよく山の神の声が聞こえるのである。

 あなたの前世は○○だったので、こういったカルマが今生に現れているのです。このカルマをなくすのには○○を信じ、○○をしなければなりません。こういったたぐいの悪徳商法が流行している。高額の数珠や置物を押し付けられ、時に借金までし購入してしまう方がおられる。

 人生に起きるすべてのことは、その人が引き寄せているのである。いいことも悪いことも。言葉や態度、行動や人格そういったものが運命をかたち作っていくものだと私は考えている。過去のカルマや信仰心とは一切関係がない。ましてどの教会やお寺にいくら寄付をしたからといったことで運命が好転するわけでもない。

 努力をしても報われない社会で、努力をしなければますます大変になるのは至極当然なことだ。『努力なくして栄冠なし』。人の上に立とうとする努力ではなく、自分を磨く努力を心がければおのずと道は開けるような気がする。

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2008年5月20日 (火)

雨の物語

 久々の雨です。雨音が心地よく寝過ごしてしまいました。ちょっとブルーな雨の日に、いつも思い出す歌があります。1977年の伊勢正三さんの作品で、イルカさんが歌った『雨の物語』です。

(1) 化粧する君の その背中がとても
  小さく見えて 仕方ないから

  僕はまだ君を 愛しているんだろう
  そんなこと ふと 思いながら
 
  窓の外は雨 雨が降ってる
  物語の終りに こんな雨の日
  似合い 過ぎてる

(2) 誰もが物語り その1ページには
  胸弾ませて 入ってゆく

  僕の部屋のドアに 書かれていたはずさ
  とても悲しい 物語だと
 
  窓の外は雨 あの日と同じ
  肩を濡らした君が ドアの向こうに
  立って いたのは

  窓の外は雨 雨が降ってる
  幾筋もの雨が 君の心の
  曇り ガラスに

とても切ない歌詞です。大人の恋心を、雨の日のさりげない女性のしぐさで感動的に描いている伊勢さんの感性に、ぐっときてしまったのを覚えています。東京で一人暮らしを始めた頃、雨の日によくこの曲を聴きました。

 子育てもひと段落をし、頭に白いものが増える年齢になると、恋とか愛だとか昔の出来事のように感じてしまうものですが、若い頃に聞いた曲を耳にすると様々な情景やら気持ちがよみがえってくるものです。

 雨か・・・・・・・・・思い出すな。

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ネクタイは苦手である

 私はネクタイをしめない。冠婚葬祭以外はほとんどノーネクタイの日常である。時には午前中農作業をしたカッコウのまんま、塾に急行するときもある。ニッカズボンに泥などこびりついたまんま指導をすることも年に何度かある。塾生にとっては私がネクタイをしている方が非日常的なものだから、泥の付いたズボンごときでは驚きもしないし、これといった反応もない。

 逆にスーツ姿で教室にいると「かねごん先生今日は何か大変なことでもあったの?」と心配して聞いてくる。私がこんな感じなものだから、講師の先生も決してスーツや正装で仕事はしない。かといってさすがにミニスカートやへそだしルックはないが、ごく一般的な普段着である。

 ひげをはやしたやくざ風の人相の男が、びしっとスーツを着てネクタイをしめているほうが、実はかなり怖い。よく眉間にしわを寄せていると妻に叱られる。「あなたはそうじゃなくても顔が怖いんだから、その眉間にしわを寄せるのやめたら」と。

 夏祭りにかつてサングラスをかけ、雪駄を履いて街の中を歩いていたら、ほとんどの人が遠巻きに避けていく。息子に「絶対俺の親父やくざだと思われるからその格好やめて」と言われ、それ以来グラサンはやめたが、そんなに自分の顔がいけてないのだろうか。塾生に尋ねるのだが、彼らもなかなか本音を言ってくれない。

 最近、髪がだいぶ危うくなってきた。いっそのことスキンヘッドにしようかなと思い、塾生に意見を求めたところ「先生それはまずいって、父兄や生徒が入塾の説明にやってきたら、絶対キャーと言って逃げてしまうって」と言われてしまった。ショック  やっぱり本音は聞かないほうがよかった。

 ネクタイをしめないのは、単に首が苦しいからだ。私は首が太くて短い、肩幅も身長の割にはだいぶある。体型で言えば古い話で恐縮だが、相撲取りの麒麟児である。身長が170センチ弱なのに体重が一時期80キロを超えたことがあった。腰痛やら肩こりやらで、ネクタイをしているのがしんどくてやめた。それ以来10年ほどノーネクタイの毎日である。

 体重はビールをやめて、70キロちょっとまで落とせたが、なんとなく口寂しい感じがしないでもない。体重が激増したのは、ストレスもあるのかも知れないが、長男が生まれたときに妻から、子どものためにもタバコはやめてくださいと言われ、やめたのを境に増えだしたのである。タバコでなんとなく保っていた人との間が取れなくなったものだから、飲んだり食べたりが多くなっていく。特に増えたのがビールの量だった。

 おと5キロぐらいやせて、首も細くなったならばまたネクタイをするかも知れないが、まあいいかなと思っている今日この頃である。先日塾経営コンサルタントのブログを読んでいたら、塾教師にネクタイは欠かせないアイテムだと書いてあったが、身だしなみという点では無難なツールではあると思うが、経営とはあまり関係ないような気もする。

 まあ確かに若い先生がジーパンにジャージ姿というのもどうかと思うが、第一印象が極端に損なわれなければ、各自の自由でいいのではないかと思う。ちなみに私は、ユニクロのズボンにユニクロのシャツ、そしてジーンズ地のジャケットが定番である。やっぱりネクタイは苦手である。

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2008年5月19日 (月)

運動会っていいな

 中学校の運動会を見て思うことだが、子ども達の元気な声、姿を見ると本当に躍動感があり、たくましくていいな~と思う。輝いているってこういうことなんだな~と実感する。

 運動するエネルギーは魂を活性化させてくれるのだろう。生徒達も疲れたといいながら、とても目が輝いているし、顔が日に焼けてたくましく、そして清々しい。体を動かすことは大切な人間の糧なのだと、あらためて運動会を見て思った。

 そういう意味では、我々大人も運動は欠かせないと思う。精神のバランスのためにも、そして肉体的健康のためにも。お金をかける必要はいっさいない。私は家に置いてあるぼろぼろの卓球台で息子とたまにピンポンをやるのだが、十分気持ちがリフフレッシュされる。

 散歩が一番いいらしい。岩手のような田舎に住んでいると、何かと不便なことが多いが、歩くことに限れば、無限のフィールドが用意されている。里山から川べりの道、そして田んぼのあぜ道と、風に吹かれながら自然の中を楽しめる。都会では味わえないちょっと贅沢な時間である。

 私も昨日の卓球大会の余波で、ちょっと筋肉痛である。ちょっとで済んでいるのは、早々と朝のうちに負けたからで、いつもなら4日間はロボット状態になってしまう。これで中学生3年生も私も、様々な春のイベントは終了した。中間テストも近づいた。勉強への切り替えだ。本日早速、塾では第2回の実力テストが行われる。運動会の代休でぼーとしている頭にカツを与えよう。

 話題は変わって高校生の話であるが、今年は珍しく高校1年生が5人いる。中3からの継続である。一関一高と高専の生徒達であるが、みんな悲鳴を上げている。何に悲鳴を上げているかというと、学校の宿題の多さにである。しまいには、塾で勉強している中学生に、「うちの学校大変で遊ぶ暇なんか全然ないから来ないほうがいいよ」などと言ってしまう始末で、塾の営業妨害をしている。

 「君達の学校に入りたくて塾に来て勉強しているのだから、その発言は控えるように」などと私もホロウするのだが、宿題ワークをそれみよがしに中学生に見せている。宿題も慣れてくればそれなりにこなせるようになるのだが、今が大変なようだ。英語のワークを持ってきて「かねごん先生全部やって」と言う気持ちも分かるが、私も忙しい身なので時と場合によっては無理な時もある。その辺のところをご理解いただきたい。

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2008年5月18日 (日)

塾の風景

080516_150959 ブログのネタが切れてきたので、先週は庭の風景 http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_bf34.html を載せましたが、今日は塾の風景を載せることにしました。

【塾の建物です】

080516_150819 【2階の指導教室です】

080516_150714【自習室です】

080516_154119 【愛車の軽トラックです】

 

 私としては、きれいに使っているつもりであるが、いつも社長(妻)には怒られている。彼女的にはもっときれいにしておいて欲しいらしい。

「ボールペンを使ったら芯を戻して、ペン立てに入れて置いてください」 「コーヒーカップはちゃんと洗ってから帰ってください」 「要らない書類は捨ててください」等々、秘書兼社長である我が妻の叱責が日々飛んでくるのである。 

 まったく話題は変わって、今日は卓球の市内大会であった。残念ながら2回戦目で高校生に負け早々に帰って来た。田植えも終わり一息ついたので、家の近くのハーブ園に行き、ハーブティーとコーヒーを頂いた。

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一面にカモミールの花が咲き乱れていました。バッハの曲を聴きながら飲むハーブ茶の味もまた格別でした。

http://www.palmdreams.net/~kusanohanashi/index.html ハーブ工房「草のはなし」というお店です。インターネットでおいしいハーブ茶が買えます。よろしかったらどうですか。

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2008年5月17日 (土)

教師はアーチストであれ

 我々の子どもの時は学校の先生は絶対の存在だった。学校で何かやらかして先生に殴られ、顔をはらして家に帰るものなら、親父からさらに2.3発もらったものだった。

 子どもながらにも特に小学校の先生はスパースターだった。鉄棒での可憐な回転、ピアノのすばらしい音色、そして絵を描けば実にすばらしい絵を完成させていく。ありとあらゆることに置いて、不可能がない存在に思えたものだ。田舎の子どもにとって学校の先生は、垢抜けていて、繊細で、そしてたくましかった。

 誰も先生に反抗するものなど、少なくとも私のいた小学校や中学校ではいなかったように思う。心の中での不満はあったろうけれど、言葉や態度に出すことはなかった。それは常に先生の意見なり教えが正しいと思ったからだ。生きることの規範を示してくれていたからだと思う。

 うそをつき他人を傷つければ、容赦なく殴られた。親が学校に自分のことで呼び出されることは、死ぬほど不名誉なことだし、耐えられなかった。したがって誰も一線を越えた悪事はしでかさなかった。これが昔の教育であり、教育の姿であった。

 現在はどうだろう。ブログでお付き合いさせていただいている、とよ爺先生も書いておられたがhttp://toyojie.jugem.jp/?day=20080517 東京や千葉などでは深刻な教師不足が生じていて、教師の採用試験も倍率が3倍を割ったということだ。かつては10倍、20倍の採用倍率だったものがである。

 学校の先生イコール割りに合わないしんどい仕事、というイメージが今の大学生にはあるのだろうか。なぜ学校の先生という職業が憧れの仕事でなくなってしまったのだろうか。このことは、じっくり考察せねばならない大きな課題のように思う。

 私など、こうやってやくざな寺子屋家業を営んでいる身であるので、まったくもってたいそうな意見など言える立場ではないが、そんな私から見ても、ご父兄の相談を聞くにつけ、塾生の相談を聞くにつけ、ここ4分の1世紀の間に、教員の質というより道徳的モラルが欠けてきたことは否定できない事実である。

 もちろん塾教師の中にも、とんでもない輩が多くひそんでいる。しかしうわさなり、事実なりが発覚すれば、我々の業界では生きていけない。経営者であれば即廃業であるし、講師ならば即刻首である。つまり問題児は、塾業界から有無を言わさず淘汰されると言うことだ。そうやってこの業界は、ある種生き残ってきたと言っても過言ではない。

 一方教員の方々は、なかなか自浄作用が働かないのが実情ではないだろうか。一発解雇処分になるのは酔っ払い運転ぐらいで、厄介な先生に対しては転勤という奥の手が用意されている。

 前のブログでも言わせてもらったが、職業の選択の自由が憲法で保障されているこの国に置いて、職業におけるペナルティーの重さも公私問わず平等でなければならないと考えるが、どうだろうか。一生懸命頑張っておられる先生方が多くいる。自分の家族を犠牲にし、時に自分の命までも顧みず、教育に情熱をかけている学校の先生をたくさん見てきた。

 しかしそういった先生方が評価されがたい背景には、人間的欠陥のあるごく一部の教師が、更生されることもなく、排除されることもなく野放しにされ、多くの良識のある先生の足を引っぱっていることが原因の一つではなかろうか。教育現場に、自浄作用と先生間の助け合いの気持ちがとても必要だと私は感じている。

 私は教師はアーチストだと思う。生徒の心に届く言葉を発し、生徒の心に届く教えを発するそういった芸術家だと思う。それは子どもの時から多くの先生を見てきて思う心からの感想であり、そして私の目指す教師像でもある。

 追伸

 毎年入塾してくる生徒達に、どんな先生が理想かなと尋ねると、一番多い回答は怖くてやさしい先生ということらしい。つまり怒るときはしっかり怒ってくれて、よいときは褒めてくれるそんな先生が好かれているのだと思う。

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今日は猫ブログ

080425_093935 080425_002753 何度かブログに登場してきました我が家の末娘、シャムネコのキラです。彼女が我が家にやってきたのは去年の12月。2軒先のお宅から突如引っ越してきました。早い話が住みついてしまったのです。

息子達の部屋に泊まったり、おばあちゃんの部屋に泊まったり、まるではじめからこの家に存在していたかのような大胆な行動に、私も思わず苦笑い。相談の結果我が家で育てることになりました。

 ただでは申し訳ないと思うのか、気を遣ってねずみを捕ってきてくれるのですが、妻は逃げ惑うは、息子達も飛び跳ねるは、大変な騒ぎです。さりげなくPCの下にモグラが置いてあったり、スズメが置いてあったり、ドキドキの毎日です。

 寂しがりやの猫で、家族が茶の間にいないとむくっと起き上がり捜しはじめます。狸のように歩くものですから、本当に笑ってしまいます。やってきた当時も、我妻は彼女を狸と間違えて、「おとうさん、おとうさん慣れなれしい狸が庭にやってきたよ」と言う始末で、本当に狸のようなシャム猫です。

 愛犬のボムがちょっとやきもちを焼いていますが、彼も13歳の老犬ですので、大目に見ているようです。

 キラのすばらしいところは、決して我が家のご飯のおかずに手を出さないことです。テーブルに焼き魚があっても、お肉があっても手を出しません。育ててもらっていることに感謝の意を表しているのでしょうか。

 今も私の後ろで寝ています。今日は猫ブログでした。

追伸

明日は息子の運動会。明後日は私の卓球の試合。結果いかんではブログはしばらく(2日ぐらい)休むかも知れません。試合の結果は後日ブログにて・・・・・・

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2008年5月16日 (金)

ウイルスバスター

080515_075136  さて左の写真は何の写真でしょうか。一見未来都市の設計図にも見えるし、衛星から写したどこかの町の写真にも見えます。

 答えは・・・・・先月崩壊した我が家のパソコンのデスクドライブの基盤です。

よ~く見てみると不思議な世界である。この手のひらサイズの基盤の中で、何十万何百万という情報が、電子の+-の二進法によって瞬時に処理されていく。音楽であったり映像であったり、そしてこのブログであったり。PCのこの部品一つを眺めただけでも人類の歩んできた途方もない歴史を感じ、圧倒されるものがある。

 30年前、あのテレビ型のワープロとあまり変わらなかったPCが、今や世界のあらゆる通信網とリンクされ、マウスのワンクリックで気の遠くなるような情報の波を泳いでいけるようになった。明日の天気やら、明日の運勢やら、欲しい書籍や、CD,洋服、ありとあらゆるものが家にいながら手に入れることができる。結婚相手との馴れ初めが、インターネットがきっかけという私の教え子さえいる。

 しかしこの技術の進歩に人間の精神がついて行けないのが現状だ。相変わらずPCウイルスを撒き散らす輩も多い。インターネットを使っての詐欺まがいの商売も横行している。アトランダムにやってくるメールのために、何度新兵器のウイルスバスターをインストールしただろうか。しかしまた新たなウイルスがやってくる。困ったものだ。

 ブラジルやロシア経由の怪しいメールも届く。最近は決して開けないが、追跡を逃れるためだろう、実に暇人も多い。

 今朝の産経新聞の記事である。中学2年生の42.9%が携帯電話を与えられ、メールをやり取りしているいわばメルトモのうち、平均5人の相手がどこの誰だか分からずにやり取りをしているという記事が載っていた。実に恐ろしい。

 ほかのブロカーの方の意見をあまり聞いたことがないので実情はどうか知らないけれども、所在やどこの誰だかさっぱり分からない方のコメントやメールに返答をし、やり取りをする方がおられるのだろうか。私はどんなすばらしい意見を頂いても、架空のアドレスやURLでコメントを送ってくる方の意見は公開しないし(非公開でお願いしますというコメントはしっかり読んでいます、相手のメールアドレスがあるかぎ、返答はしています)受けつけていない。

 私もいろんな方のブログにコメントをさせていただいているが、必ずアドレスとURLはいれている。相手の方が返答できない一方的なコメントやメールは、一種の暴力だと認識しているからである。

追伸

 先月のパソコン修理の際に強力なウイルスバスターをインストールしましたので、私のブログのメールは汚染の心配はないと思います。どうぞご意見コメントがございましたらお気軽にください。また、リンクももしよかったらどんどん張ってください。アダルトやホーラ、及び組み関係(・・・)等のブログでなければ、私もリンクをどんどんはらさせていただきたく思っています。よろしくお願いします。

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2008年5月15日 (木)

竜神の顔

  

2008年5月13日(中日新聞)

2008051400000019maiallsociview000  竜にまつわる言い伝えがある伊勢市楠部町の松尾観音寺本堂のろうそく台前の床に「竜」に見える模様が現れ、聞きつけた人たちが御利益に預かろうと県内外から訪れている。

 同寺は、奈良時代に高僧・行基が創建したとされる。本堂裏の2つの池に雄竜と雌竜が住み、観音様を守っていると伝えられる。

 竜は、一昨年11月、木造(こつくり)隆誠住職(35)の仏前結婚式前日に、参拝者の男性が見つけた。本堂は総ケヤキ造りで、節や木目が竜の顔や尾のように見える。5年前に床を張り替えた大工も驚いているという。

 参拝者が磨くうちに、模様は次第に濃くなり、「お床磨きの竜」「触ると幸せになれる竜」などと呼ばれている。「縁起がいい」と撮影した写真を額に飾っている中日ドラゴンズファンもいるとか。木造住職は「もうすぐ開山1300年。時代が移り変わる時期に現れ、足元から守っていただいている」と話している。

 (谷知佳)

 竜好きのかねごんにとっては、たまらない記事である。写真の竜もどこかやさしげでいい。私も空にくっきりと浮かぶ竜神の姿をした雲を見たことがあるが、本当に不思議な写真だ

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ちなみに、当セミナーの神棚には塾生の合格を祈願して竜神をお祭りしてある。ドラゴンボールに出てくる竜神も鎮座している。平泉中尊寺で買ってきた竜神もいる。貴船神社の由緒正しい竜神もおられる。そして金成町の金田八幡神社の竜神も・・・・・・・。早い話が竜神オタクなのである。

 竜神にまつわる何か面白い話があればぜひ、私かねごんにお知らせいただきたい。

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仮面ライダーVの法則

中学生に「かねごん先生は本当は何の教科が専門なの?」とたまに尋ねられる。中学生部門は全教科を指導しているので、生徒も聞いてくるのだろうと思う。

 大学では英語英米文学を専攻したが、本当は自分は英語が好きではないような気がする。中学3年の時は、なんと評価2を頂いた。そのほかの教科もよく出来たわけではない。音楽と卓球にのめり込んだ日々だった故、どうしようもない生徒だった。

 話せばちょっと長い話になるのだが、中学2年生の秋に私の人生を変える事件が起きた。志望高校として、工業系の学校を受験したいと思っていた。ゆえに調査表にも工業高校の名前をしたためて出した。後日進路指導の先生に呼ばれ、「君は将来、電気や機械系、及び医療系の仕事には就けないよ」と言われた。

 先日のパソコンの崩壊と同じくらいショックだった。色弱だった。小さい頃から絵を描くとよく色彩の注意をされた。思い当たる節はあった。ある一定の明るさがないと、赤と黒の区別がつかないのだ。現在も教室で、赤ペンと黒ペンを間違うことがよくある。緑の芝生の上に赤いボールを置くと、瞬時にボールが消えてしまう。まるで私の目はイリュージョンだ。

2399660003  ちょっとぐれた。アマチュア無線などに興味があったので、電波工学や通信工学を将来学びたいと思っていた。すべてが崩壊した。勉強をしなくなった。遊びほうけた。そして成績は面白いほど落ちて行った。高校入試、そんなの関係ね~の世界だった。

 普通科に入ったものの、やることはなかった。相変わらず音楽三昧だった。文系に行かざるを得ない身として、仕方なく本などを読み始めた。勉強部屋にあった無線技師の本や、ラジオ関係の本はみんな捨てた。

 それから30年の歳月を経て、我が息子が私に代わってリベンジしてくれた。私が入りたかった学校に入ってしまった。息子には言わなかったが、30年来の恨みつらみが氷解した一瞬だった。うれしかった。理系のDNAは何とか受け継がれていたようだ。

 英語が専門の先生が、なぜに理科の電気や磁界の話に熱弁をふるうのか、塾生諸君理解していただけたろうか。ちなみに、電気のオームの法則を覚えるために私が10年前に考案した『仮面ライダーV』なるシリーズものがあるのだが、塾生たちのノートを通じて広がり、今や中学校の理科の先生方も真似て使っている。最初のオリジナルはこの私かねごんなのである。あしからず・・・・・・。

 今まで何度か人生において履歴書を書いてきた。資格欄に無線技師免許と書くたびに、必要のない資格だよなーと思いつつ、自動車免許以外とりたてて書くこともないので書いてきた。阪神淡路の地震被害の時、壊滅した電話回線に代わって無線機が救助に役立ったと聞いて、ちょっとまたやってみようかなと思いつつも開局はしていない。

 CQ。CQこちらかねごん、応答願います・・・・・・・。

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2008年5月14日 (水)

アミ小さな宇宙人

 『アミ小さな宇宙人』は、とても感銘を受けた本だ。エンリゲ・バリオスのこの作品は、異彩を放つ大人のための童話である。

 アミはペドゥリート少年に話しかける。「自分の魂が想像したものはすべて実現可能なことだから、努力と維持と確信を持って実現すべきだ」と。地球上に住む我々人間が一番欠けていることは、大人になって夢を見なくなることだ。年老いて行くことに絶望はいらない。そんなメッセージがアミから発信されてくる。

 子どもが学ぶということは、毎日進歩すること。毎日を精一杯楽しむということだ。本来は強制や使役があってはならない。私たち人間は強制や使役を嫌がるけれども、それは本当は必要ないことなのかも知れない。

 自由に奔放に生きることを制御してきたものは、支配しようとする存在の歴史だ。宗教という名の支配、軍隊という名の支配、教育という名の支配、そして政治の支配。人は搾取(さくしゅ)されることに歴史の中で慣れすぎてしまった。

 ロイヤルティーを払わなければ生きていけないシステムを、がんじがらめに作ってしまったような気がする。所得税を払うのも、健康保険税を払うのも、自動車税を払うのも、消費税を払うのも、固定資産税を払うのも、そして国民年金を払うのも・・・・・。

 生徒達は言う。「先生江戸時代の農民は大変だよね、士農工商で表面的な身分だけ保証されているけど、年貢はさんざん取られて」。今のサラリーマンの方が、ずっと大変だ。少なくとも江戸時代には、家族で晩御飯を食べれた。盆正月は休むことが出来た。今のような多くの税金は取られなかった。考えてみて欲しい、生活の便利さ、物質の豊かさだけで幸福度は決して計れない。

 4202 うそや不正がなければ、警察も鍵も鉄条網も鉄格子も壁も何も必要じゃないし、面倒な書類もいらない。国の対立もなくなるし、宗教の対立もなくなる。そうすれば毎日を楽しく精一杯生きていける。

このシンプルなことが出来ないのが、人間の悲しい性なのだ。『アミ小さな宇宙人』をぜひ家族で読んでみて欲しい。そしてお子さんと話し合ってみて欲しい。宇宙人アミの言葉について。

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2008年5月13日 (火)

ミャンマーも中国も

 ミャンマーのサイクロンの大災害、中国四川省の大地震。偶然の災害だろうか。私は正直心が震撼した。方や軍事政権の横暴、方やチベット軍事弾圧。北朝鮮に置いては、ここ数年旱魃と冷害によって農業生産が壊滅している。

 地球ガイア思想、地球というものを、意思を持つ一つの生命体と考える思想が昔からある。かつて栄華を築いた多くの文明が、衰退し滅亡していった。それは地球との共存を図ることなく、人間のエゴを押し通した結果だとも言われている。

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この美しい地球を見て欲しい。水清くして、生きていけない生物がいるように、この星に適合できない生き物も同じように淘汰(とうた)されていくのではないかと危惧している。

我々人間は、無理をしたりストレスをためると体のあちこちに異変をきたす。時に胃潰瘍だったり、口内炎だったりするわけで、薬を飲んでその症状を回復しようとする。それが癌ともなると、抗がん剤で、良性の細胞まで時として破壊し、治癒しなければならない。地球上での我々人間の集団ストレスや怒りが、癌細胞のごとく地球を痛めつけてしまっているのではないだろうか。

 かつてある環境学者が言っていた。台風は厄介なものだと思われているが、実は台風により汚れた大気が掃除されているんだと。だから大気の環境が悪くなるほど、台風が増えるんじゃないかと。まさにガイア思想だなと思い読んだ記憶がある。

 多くの犠牲者が出ている。支援物資の援助も緊急を要する。こういった災害に対する我々他国のアクションこそが大事なときである。自浄作用が出来ない国をただ傍観していてはならない。それは間違いなくわが国にも起こり得ることだからだ。

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2008年5月12日 (月)

運動会の季節です~ちょっと困ったことが~

 来週の土曜日、日曜日は市内の中学校の運動会である。塾内でも運動会の話題が何かと増えてきた。特にクラス対抗全員リレーの話題で盛り上がっている。このクラス全員リレー、我々の頃にはもちろん無かったものだが、近年は運動会の目玉的存在になっている。

 全員リレーだけあって、もちろん超速い子もいれば、遅い子もいるわけで、見ている方としては非常に面白いのだが、それぞれの組リーダーは順番の決め方に苦慮しているようだ。逃げ切り先行でいくのか、後半に俊足を揃え逆転を狙うのか、それぞれのタイムを考慮し頭を悩めている。

 私もこの全員リレーが楽しみで塾生の運動会を見に行きたいのだが、ここ数年は自分の息子の運動会と重なることが多く、行けても一校か二校ぐらいしか行けない。

 運動会に行くと塾生のリアクションも様々だ。私の姿を見つけて手を振って声をかけてくる生徒もいれば、真正面に来ても知らないふりで過ぎて行く生徒もいる。後者の生徒はきっと塾に行っていることを知られたくないんだろうなと思うので、私も相手のリアクションにあわせることにしている。

文化祭などでも同様であるが、この手のケースは私も長年塾教師をしてきて慣れない一瞬だ。塾では私に対してとてもフレンドリーで親しい塾生が、学校の行事等で、特に友達と一緒だったりする時など、完全に私を無視したりする。若い頃にはそれなりにショックを受けたものだが、最近は子ども達の事情というものに私もだいぶ大人になってきたので、それほどのダメージは受けないが、正直若干動揺はする。

 確かに髭面の怪しいおじさんに「お~こんにちは」などと声をかけられれば、「あのおじさん誰?」ということになり、塾に行っていることを明言していない生徒にとっては厄介な状況ではあるわけで、私も慎重にならざるを得ない。

 まさか塾で「学校で私と会うことで困る生徒は申し出るように」というわけにもいかず、この問題は私かねごんの毎年の小さな悩みの種である。

 「先生運動会見に来てくれた」そんな声を耳にする限り、塾生の学校での頑張る姿を見てあげたいわけで、この私のブログを読んでいただいてる方で何かよい考えなり、実践案がありましたらどうかコメントにて教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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2008年5月11日 (日)

山の魅力

080511_141858 Neko今日日曜日、我が家の田植えが終了。我が家の末娘のキラが私の植える作業を監督しておりました。

田植えも終わると、一気に里山は濃い緑色に覆われ、私の山心がうずきだす。

一人もくもくと山を登り続けるとき、自分の荒い息づかいと、ざっざっという足を運ぶ音だけが、深閑とした森の中に吸い込まれていく。

 闖入者を警戒するかのように、動物達の気配は消える。遠くで小鳥がさえずるぐらいで、立ち並ぶブナやナラの木さえ、息を潜めているようだ。私は一人で山に分け入るときの、あの静けさがたまらなく好きだ。何かが自分を監視しているような気分や、山の精霊たちが木々の枝から私を見おろしている感覚がたまらない。

 080511_153003 新緑の里山を眺めていると、山歩きの衝動に駆られる。しまい込んでいた登山靴をさりげなく出してみたり、登山ナイフの握りを確認して見たり、うずうずしてくる。幸いにも山で熊と遭遇したこはないが、日本カモシカや雄鹿が急に目の前に現れ、慌てたことは何度かある。スポーツ店などの登山コーナーで、唐辛子スプレーが売っているが、不安な方は山歩きに持ち歩いたほうがいいかも知れない。

 知らない町の中ではよく迷うことがあるが、不思議と山の中では迷ったことがない。秋の登山道は落ち葉で隠れてしまい危険な時もあるが、この時期の山道は、獣道に迷わない限り比較的安全だ。

 今月の半ばから、多くの山が解禁となる。5年ぶりに塾登山を再開しようかと計画中だ。危険な山登りなどしないほうがよいのだけれど、時として人間は冒険心がうずくものだ。

 厳冬の山登りをする知人が言っていたが、あのマイナス20度の寒風を体験したくて登るのだという。さすがにそこまで私はMではないが、でもやっぱり山はいい。

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2008年5月10日 (土)

庭の風景

080510_090105 私のブログを読んでいただいてる生徒諸君や、ご父兄より「先生はどんな秘境に住んでるんですか?」と最近よく尋ねられる。そこで今日は私の庭の風景ということで、紹介させていただこう。

 私の家の周りは、田んぼと山しかない。中学校までは7キロ、最初のコンビにまでは5キロの道のりだ。たぬき達やきつね達が、家の前の道路をよく横切っていく。かわいそうに交通事故死をする動物達も多い。

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毎日里山の風景を眺めて暮らしているせいか、私は視力だけはこの年になっても2.0をキープしている。老眼にもなっていない。体の部品の中で唯一自慢できる箇所だ。

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子どもが小さかったとき、家の納屋の壁にぐりとぐらや、バーバーパパなどの絵を妻と描きまくった。我が家を訪ねてくる人達の目印になっている

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田んぼには水が張られ、今度の日曜日からいっせいに田植えが始まる。私の家では20年以上ササニシキを作っている。ほぼ無農薬だが、それゆえ近隣でいもち病が発生するとひとたまりもない。神に祈るのみだ。

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裏庭には、江戸時代からの水神さまを祭っている。丘陵地帯が故、水をとても確保するのが大変だった。竜神信仰や山の神信仰が、今でも残っている。

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2008年5月 9日 (金)

26年目に突入

 ふと気づいたら先月で塾教師生活も、26年目に突入していた。とても短い26年だったような気がする。東京の世田谷で2年、岩手に戻り奥州市(旧水沢市)で6年、そして独立して一関で18年が過ぎ去った。ブログで何度もしたためてきたが、本当に様々な出逢いがあった26年間だったと思う。

 塾教師をやってきて一番よかったことは、受験という子ども達にとっての人生の桧舞台に、毎年携わってこれたことである。一緒に喜び、一緒に泣き、そして塾生たちと一緒に歩んできた。長い道のりだったけれど、本当に一瞬だったような気がする。

 教育の問題はたくさんたくさん山積みされてしまっているけれど、いつの時代も子ども達はピュアーだった。輝いていた。そのことは間違いない。その輝きの放射を時としてさえぎってきたのは、大人の都合とエゴという名の執着心だ。

 自分の果たせなかった夢を子ども達に押し付けるエゴ、子どもを支配したいという大人のエゴ。ピュアーな魂の叫びなど二の次三の次。実益と現実の闘争に駆り立てられる子ども達。心の安らぎは奪われ、夢を見る暇さえも与えられなくなっている。その代償として、自分を他人から遮断し、社会との接点を持つことをやめた若者が急増した。

 小さい頃からテレビゲームやハンディゲームを与えられ、バーチャルな世界と格闘してきた子ども達。彼らだっておろかじゃない。現実世界と空想の世界のギャップなど、最初から認識している。昔も今も、子ども達が見上げる青い空はさわやかで、季節季節に降り注ぐ日の光は世界を平等に照らしてくれる。青春という名の風がそよぎ、恋をし、夢を追い、そして大人になっていく。

 子ども達は、今も昔も本質的には何も変わっていない。塾をやってきて、それは間違いなく言えることだ。今社会を悩ませている要因の一つは、弱者への思いやりの欠けた社会になってしまったことだと思う。「差別用語はやめましょう」「I  love  障害者」そんな言葉が巷にあふれる一方、老人が孤独に追いやられ、学歴の無い若者がスポイルされて行く。

 先日我がブログにリンクさせていただいている奥村先生もブロブでおっしゃっていたが、競争原理を取り入れなくていいところで、今日本社会は競争を煽っているような気がする。脱落者を作って誰が喜んでいるのだろうか。

 人は勝ち続けることは出来ない。そのことを社会は気づかなければならないと思う。

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2008年5月 8日 (木)

遺伝子の初期設定ミス?

 いつも家内に叱られるのだが、机の上が戦場と化している。読みかけの本や参考書やら、生徒の指導記録などが、家内に言わせると散乱しているらしい。

 言い訳に聞こえるかも知れないが、私なりに仕事がし易い配置をキープしているつもりだが、いつの間にか片付けられ、私の思考も一緒に飛んで行ってしまう。汚いのはいけないと思うけれど、整理整頓はまあいいかと思ってしまうのが私の悪い癖だ。どうも直らない。

 実はある程度の乱雑さがないと、私の思考は働かないようだ。学生の頃からそうだ。たまに気まぐれに机を片付けたりすると、ちょっと魂が浮遊した感じになってしまい勉強に身が入らない自分がいた。今もそうである。本が無意味に体積しているかのように思えるところに、実は私の思想も体積していたりする。その辺のところが、妻には理解できないらしい。

  PCの周りに散乱している私のメモ用紙も、時としてゴミ箱の中に瞬間移動しているときがある。そんな感じで、したためていたブログのした原稿が、日の目を見ることなくいくつかワープしてしまった。彼女に言わせれば「それは必然的に発表しなくてもいい内容だったのよ」ということらしい。

 教室で指導している私の様子を眺めていて、「よくもまああの乱雑に押し込んでいる棚から、瞬時に生徒に必要なワークが見つけられるものね」とよくほめられる。私にしてみれば宝物を探し出すような快感を味わっている作業なので、なんと言われても変えるつもりは無い。

 PCに資料をインプットしておいて、ボタンひとつで取り出せるようにしておけばいいのにと思うのだろうが、先月のパソコンの崩壊を経験してしまった私には、それは当分あり得ないことだと思うし、ひょっとしたら私が生きている間、システムは構築されないような気がする。

 たまに息子達の勉強部屋をのぞいて見ると、まさしく私のDNAが受け継がれたとしか言いようのない状態になっている。遺伝子の中に『片付ける』という初期設定が、きっとインストールされていなかったのだと思う。残念!

 私の机の乱雑さに例えては失礼だろうけれど、学校でじっとしていられない、いわゆる他動性障害とか注意欠陥性行動とかの呼び名が付けられる行動を起こす子ども達が増えている。病院に連れて行くと、何がしかの病名を付けられ、何かしらの薬をもらってくる。でもじっとしてられないのは、自分をフレキシブルに保つことで、何かの思考形態を構築している故なのではないかと思ったりする。

 行動の乱雑さは、実は彼らの特殊な個性なのではないかと思うときがある。それが証拠に、薬を投与され行動が安定してくると、あれほど感性豊かに描いていた絵が、ぜんぜん描けなくなったり、物凄い暗記力を示していた子が普通になったりする。過去において、そのような子ども達を何人か見てきた。

 ある天才肌の人間の中には、ある種の乱雑さが同居しているのかも知れない。私は天才でもなんでもない普通の中年オジサンなので、せめて机の上だけでもフレキシブルに保とうとするのだけれど、2,3日もしないうちに天の声が聞こえてくるのである。「あなたちゃんと片付けてくださいよ!」う・・・・やはり遺伝子の初期設定ミスか・・・・。

追伸

昨日かつての教え子のフミちゃんが塾に寄ってくれた。結婚して釧路に嫁いだのであるが、出産のため里帰りをしているとのこと。2歳の長男を連れ、臨月のおなかを抱えながら大変そうだったが、母親としてのきらめきを放っていた。ちょうど『風と虹の教室』の幼児コースが始まる時間だったので、ちょっとだけ一緒に遊んでもらった。来週が予定日とのこと、元気な赤ん坊がきっと生まれることだろう。

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2008年5月 7日 (水)

多数決は嫌いだった

 多数決が嫌いだった。子どもの頃から賛成多数の意見に従わなければならない状況というものに、ずっと違和感を持って生きてきた。今でもそうだ。だから一匹オオカミ的生き方が好きで、塾をやっているのかも知れない。

 私は多数決が正しい選択ではない時があるということを、なぜみんなが知ろうとしないんだろうと、小学生や中学生の時に思っていた。最後まで少数派の意見に固執するものだから、面倒がられることも多かったように思う。「多数決で決まったことだから」というフレーズに、怒りさえ覚えたことがある。

 数の論理という言葉が政治にあるが、少数意見を抹殺する国家は必ずいつか迷走する。過半数の数で物事の行く末を決めるということは、四割以上の反対があっても公然と無視されるということだ。時として、その反対意見が真実を述べていたとしてもである。

 この人に賛成しておけば自分が楽を出来るとか、この決定を支持すれば自分に都合がいいという気持ちが、多数決の心理には必ず付きまとっているように思う。そうじゃないだろうか。

 多数決をすれば、一番都合のいい人達の希望に叶う決定になるのが、目に見えている。そしてそれを民主主義と呼ぶならば、多数決の民主主義はすでに死んでいる。

 原子力発電所がなくならないのも、もういらない道路を一生懸命造るのも、多数決で決まるからだ。

 真実の意見というものがもし受け入れられてきたのなら、こんなに環境を破壊することもなかったろうし、160万人とも言われる引きこもりの若者を生み出すこともなかっただろう。

 アジテーションがうまくてリーダーシップがとれる人間が、いつも善人とは限らないところに、我々現代社会の苦悩がある。自分の利害をまったく考えず、時として犠牲にしてまで全体の利益と幸福を考える政治家が育たなければ、日本の社会に未来はない。

 そういった政治家が増えてこそ、初めて多数決が社会に反映される政治が行われるのである。

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2008年5月 6日 (火)

○○モデル

 昨夜は卓球仲間との新年度の飲み会で、久しぶりに外で酒をご馳走になった。10名ちょっとの卓球集団であるが、塾の教え子がいたり、ご父兄がいたりと気心が知れた楽しい飲み会であった。

 卓球だけの話題で3時間も4時間も酒を飲める集団など滅多にいない。他人が見たらおかしな一団だよな~と思うわけで、ゆえに我々だけ二階に隔離され飲んでいた【・・笑い】。

 私は小学校の時に、当時全日本チャンピオンだった長谷川選手の豪快なプレイに魅了されて卓球を始め、40年近くなる。いまだに年数回は市内大会等に出て、親子ほど離れた中高生を相手に真剣勝負をしている。運良く勝ち進んだにしても、4回戦目や5回戦目で体力的にこときれるかねごん選手なのだが、汗をかいた後の爽快感は実にいい。それが卓球をやめられない理由である。

 卓球は道具のスポーツと言われている。最近チタンカーボンなどの様々なラケットの素材が開発され、ボールの反発力や回転力が格段アップしている。年を数えるほどに、そのスピードについていけなくなってきているのだが、逆に私も最近開発された特殊ラバーを貼り付け、スピードボールを吸収しやすいラケットを使っている。イタチの追いかけっこみたいなものである。

 最近水泳界でも、高速水着なるものが問題となり禁止の方向に動いているようだ。いくら道具が進化しようともやはり問題はプレイヤーそのものの問題であるわけで、中学生の初心者の諸君が、プロ使用の高価な道具を買うのは少し考えてみてはどうかと思う。一流選手の名前を付けた○○モデルなどというものを手にしたからといって急にうまくなるわけではないのだが、企業もうまく子ども達の購買意欲を誘ってくるものだ。

 実はギターなどの楽器でもそうである。売れているミュージシャンの名前を付けた○○モデルなどというものが必ず出回る。ギターネックに光もののポジションマークを施したり、ピックガードの模様を替えてみたり、音色とはなんら関係ないモデルだったりして、笑ってしまう。それでもこの○○モデルというものが無くならないところを見ると、やっぱり世の中の人達は、このフレーズに弱いんだろうなと思う。

 

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2008年5月 5日 (月)

松を植えた男

 昭和50年の岩手日日新聞の特集記事である。

 宮城野から北上平野にまたがる丘陵地帯となっている花泉町のうちでは、海抜が一番高い場所にある刈生沢(かりゅうざわ)は、昔からしばしば冷害に襲われて米が実らない時があった。

 今からおよそ160年前ほどの文化11年、梅の木田屋敷の金田庄太左エ門という人は、当時肝いりだったが、部落の窮状を藩主田村宗顕(たむらむねあき)に訴え、こうしたやませや霜の冷害を防ぐために藩から松の苗木の交付を受け、部落の人たちを勧励して、三年間に三千本の松を西北の稜線およそ五キロにわたって植栽した。(中略)

 この松は部落の管理が適切だったこともあって、すくすくと育ち、大正時代には直径七十センチ程度の大木に育って、ちょうど三保の松原のように壮観であったといわれ、昭和五年ごろには大木1200本が存在していたという。

 春や秋の晩霜早冷にもあまり被害を受けず、部落は霜よけ松のお陰でようやくよそ並みの収穫をあげることが出来たばかりか、秋の味覚であるきのこ刈りの格好の場所でもあった。ヌラコ・初茸・アミコなどが沢山採れ、町に売りに行く人もあったほどで、この松が末永く繁茂し続けて欲しいと部落の人たちは願っていた。

 しかし、大正15年の秋に襲来した台風のために、多くの松が根かえしに倒れ、衰微の兆しが見え始めた。

 この後、昭和に入り、それまで部落の共有になっていたこの大量の立木が、金沢村所有財産に名義変更され、所有権や伐株の権利は村に移管された。部落ではあくまでも部落の共有であることを主張した人もあったが、刈生沢小学校の改築費用に当てることを条件に、村有となった。

 この松は、この後昭和11年に改築された金沢小学校校舎の梁材などに利用されたほか、火災後の同村役場の改築資材、更には戦後24年に焼失した金沢小学校の建築資材に利用されたのをはじめ、金沢小、刈生沢小の格屋体、金沢公民館の建築費の一部として伐株され、花泉町に合併になった31年頃には、一本も無く全部伐株され利用されている。

 今では以前と比べ稲の品種も改良され、冷害に強い品種が植えられるようになったが、今から百数十年も前には、こうして小さい苗木から育て、百年余りの年月を経てようやく天然の風除けがつくられたわけで、直接植栽した金田庄太左エ門をはじめとする当時の農民の悲願がいかに大きかったかが、このあと年々管理に当たった部落民の誠意と熱意が大木の並木を繁茂させたかという現実からも伺い知ることが出来る。

 江戸時代一介の百姓が、藩主に窮状を訴え出ることは命がけの事であったと思う。金田庄太左エ門は我が家12代当主であった(現在私が17代目である)。昭和50年8月24日の岩手日日新聞は、彼のひ孫である私の祖父と当時私も住んでいた茅葺の家を紹介し、紙面一面を使っての特集記事を組んだ。中学生だった私は、新聞記者の方や郷土史研究家の方々が連日訪問するあわただしさに、ただ驚いたのを覚えている。

 江戸時代に藩主より人足肝入りを命じられていた我が家も、明治時代になって没落する。私が生まれた頃は、旧家の面影など微塵もなかった。田植えを前にした集落の片隅に、金田庄太左エ門の功績を讃えた記念碑が静かに佇んでいる。温暖化の影響で、近年霜ややませによる農作物への心配はすくなくなったが、農業を継ぐ後継者がいなくなり休耕田が増えていく集落の様子を、松を植えた我が祖先はどんな思い出で見ているだろうか

追伸

ご不便をおかけしておりましたが、当ブログ及びセミナーへのメールが復旧いたしました。ご意見、ご相談、苦情等、気兼ねなくよろしくお願いいたします

         daiken@flute.ocn.ne.jp 

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2008年5月 4日 (日)

風聞園(ふうもんえん)

 一関の山里に、隠れ家のように佇む素敵なお茶所がある。あるじの斉藤さん自らが、7年の歳月をかけて創り上げた、深山の庭園に囲まれた秘境とも言うべき癒しの喫茶店、それが風聞園である。

 斉藤さんは私と同様塾経営者で、市内で中央塾という進学塾を営んでおられる。19年前私が市内に塾を構えた時に、多くの個人塾が存在していた。そして今、多くの個人塾が廃業し、多くのフランチャイズの塾が参入してきている中、その当時から存続してきた個人塾は私の塾を含め3つほどになっている。

 斉藤先生はそのがんばり続けてきた個人塾の一人であり、塾経営者の大先輩である。還暦を迎えられる斉藤先生であるが、チャレンジ精神が旺盛な若々しいきらめく感性をお持ちの先生だ。

 私の塾から直線距離で500メートルも離れていない塾を宣伝するなど、かねごん先生もお人よしだと思われるかも知れないが、じっさいお人よしなのである(・・・笑い)。いやとんでもない。私のライバル塾ではあるが、この激動の時代を生き抜いてこられた大先輩の戦友であり、先駆者である。

 私が斉藤先生に惚れ込んだ逸話を紹介しよう。実は風聞園に二回目にお邪魔した時のことである。奥様と一緒にご主人の斉藤先生もお店を手伝っていらっしゃった。同じ塾の経営者同士ということもあり、教育の話で盛り上がった。

 塾の大先輩を前にして私は恐縮しっぱなしで、何気に斉藤先生と呼びかけたのである。先生は「お互いに先生はよしましょう、斉藤さんでいいですから。」ときり返してきた。私は正直一本やられたと思った。ブログでも書いたが、学校の先生や塾の先生が、プライベートの場所で先生と呼び合うのはいかがなものだろうかと、書いた矢先のことだった。

 その頃はもちろん私のブログの存在など先生は知らないわけで、長年激動の塾業界を生き抜いてきただけに、この方も感性は鈍っていらっしゃらないなと感銘を受けたのである。

 その日を境にして、かつての戦友は意気投合し急接近したのである。実は昨日も妻と息子を引き連れ、風聞園に行ってきたのであるが、我が末の子は「こんな所に住んでみたい」と目を輝かせていた。正直私もこんな森の中で、風の歌を聴きながら本を読めたら天国だろうなと思ったしだいである。

 今回斉藤先生の風聞園のHPを私のブログのリンクに加えさせて頂いた。斉藤先生とは今後とも、さまざまなコラボレーションを展開して行きたいと思っている。

 私のブログは内容はたいしたことはないけれど、大験セミナーわくわく日記のリンク集は史上最強だと自負している。小林先生、本田先生、奥村先生、とよ爺先生、そして斉藤先生のリンク・・・・考えただけでも身震いを覚えるかねごんであった。

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2008年5月 3日 (土)

曲を書くということ

 私は譜面が読めない。いわゆるおたまじゃくしを見ながら曲を弾くことも出来ない。学生の頃から耳コピーで曲のコードをたどりギターを弾いてきた。したがって曲を作るときもコード譜を歌詞の上に書き込みながら曲を練っていく。

 中学校の音楽の宿題で、曲を作ってくるというのがあると、必ずMDに録音してきて「かねごん先生譜面にして」という塾生がいる。「出来ないよ」というと、信じられないというリアクションをする。申し分けないと思っている。

 絶対音感とまではいかないが、よっぽど複雑な曲じゃない限り2,3回曲を聴けば、おおよそのコード進行が把握できる。小さい頃から譜面が読めないゆえに、耳が研ぎ澄まされてきたのかも知れない。

 小学校の時、譜面を前にしてオルガンを弾きこなす同級生を尊敬の念を持って眺めていた。私といえば、いつもカスタネットやシンバルのパートだった。ある時、勇気を持って担任の先生に進言した「先生メロディーのでる楽器がやりたい」と。

 先生は私に木琴を任せてくれた。がしかし残念ながら打楽器としての簡単なパートだった。私は子どもながらに誓った、必ずドレミの楽器を弾ける人間になってやると(・・笑い)。

 中学校の1年生のとき、いとこからクラッシックギターを借りたのが、初めてのギターとの出会いだった。はまってしまった。時代はフォークブーム、吉田拓郎や井上陽水が登場した時代である。勉強は二の次三の次。毎日毎日ギターを握りしめ、歌を熱唱していた。おかげで音楽だけは最高の評価を先生よりいただいた。

 ブログにはまっている私は、ここ半年曲を書いていない。新曲発表がないものだから、塾生にも「先生なんか面白い曲作ってよ」とのリクエストもあるのだが、やっぱりブログを優先してしまう。次回ブログねたの曲でも書こうかと思っているのだが、どうなることやら・・・・。

 本日なんとすごい事実を知った。あの小室哲哉さんも私同様譜面が読めないということを。ん~・・・・・・私もヒットメーカーになれるかも知れない・・・・

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「さよなら」は言わない

 英語を教えている先生ならばご存知だと思うが、意外と Good-bye の本来の意味は知られていない。英語の辞書を紐解くと、God be with ye. の省略形と書かれている。最後の ye は現代の you である。つまり「神様があなたとおわしますように」という意味になると思うのだが、 若い頃この意味を知ってからというもの、なぜか気軽に Good-bye (さようなら)を言えなくなった自分がいた。

 人と別れをしなければならない時、旅の途中ではやり病などにかかってしまえば、命の保障はない。「どうか神様、この人を見守ってあげてください」なんと切ない別れの言葉だろうか。

 人は多くの別れを繰り返す。二度と人生で逢うこともなく、過ぎ去っていく人たちもいる。毎年春に受験指導が終われば、生徒達はそれぞれの旅立ちをむかへ巣立って行く。ちょくちょく近況を告げに塾に立ち寄ってくれる教え子達もいるが、別れた後一度も会うことのない生徒らも多い。

 古い名簿などを片付けていて、懐かしい名前を目にしたりすると、元気でいるだろうか、結婚はしただろうかと、思いは巡っていく。

 長い教師生活の中に置いて、若くして天に召されてしまった教え子を見送ったこともある。青春半ばでこの世を去る御霊を見送るのは、いつも切なく心が痛む。そんな時私は心の中で「God  be  with  ye  to  the  heven」 神様どうか天国への道のりをお守りくださいと祈らずにはいられない。

 しばしの人との別れの時、私はさよならを言わない。さよならを言ってしまうと、もう二度と会えないような気がしてしまうからだ。神様にお願いしなければならないくらい遠くへ行ってしまうような気がしてしまうからだ。

 「元気でね、またね」 See  you  again.  私は「さよなら」は言わない。

追伸

昨日リンクを貼らせていただいてる【とよ爺のつぶやき】のとよ爺先生が、私のブログを紹介してくださいしました。すごいアクセス数でした。膨大なアクセス数をほこるとよ爺先生だけあって、影響力はすさまじい 。まるで教育ブログ界のしょこたんみたいです(・・失礼)。アクセスが増えれば増えるほど、いい加減なたわごとも書けないな~と思うわけでちょっと身が引き締まる思いです。とよ爺先生ありがとうございました。

 

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2008年5月 2日 (金)

親御さんが会社で困っていることは

 月刊誌『Family』のかつての特集で、中高生のお子さんがいる親御さんへのアンケート特集が書かれていて、「あなた自身が会社で困っていることは?」という質問に対して(対象5046人)次のような回答が寄せられていた。

 【1位】英語が使えない(47,0%)、【2位】マナーや作法を知らない(20,7%)、【3位】文章が書けない(14,9%)、【4位】ゴルフが出来ない(14,3%)、【5位】物を知らなすぎる(11,5%)、【6位】歴史を知らない(8,0%)、【7位】敬語が使えない(7,2%)

 この結果を見て私は不思議に思ったのだが、パソコンが使えないという項目が入っていない。私なら即1位にあげるのだが、時代なんだな~と実感する。

 ダントツ第1位に英語が使えないがきてしまった。やっぱりなと思う。英語を実技科目にすべきという主張を20年以上にわたり言い続けてきた私としては、もうこれ以上繰り返すつもりはないが、日本社会は英語を使わなくてもいい社会に変革すればいいのである。

 英語に費やすエネルギーを、日本語文章のスキル練習や、敬語教育の強化等に当てれば、おのずと【2位】以下の問題点は改善されていくはずである(ゴルフは別だが・・)。

 私は27年間中高生に英語を指導してきた。はっきり言わせてもらう。運動おんち(?)や本当の音痴がいるように、英語おんちは存在する。間違いない。数学や理科の学習にはすばらしい能力を発揮するのに、英語となるとまるっきりだめな生徒を山ほど見てきた。一生懸命やっても中学校英語(本来はそんなカテゴリーなどないけれど・・)を超えられないのである。

 英語は実技教科である!100メートルを18秒で走る生徒に、努力して13秒台にしろとは言わないだろう。それを英語でやってしまっている。「やれば出来る」という言葉は時として悪魔のささやきになる。

 旧約聖書創世記第11章に、有名なバベルの塔の話がある。世界はかつて統一言語を持っていた。世界の民が言語による意思統一が簡単だったために、極端な思想や考えまでもが、あっと言う間に広がり、それが神の怒りに触れ、神は人々の言葉をばらばらにしてしまったという話である。

 含蓄のある深い話ではないだろうか。英語が出来ないと言って、会社で困っているおよそ半数のお父さん方。『大丈夫』それは神の意思ですから・・・。

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2008年5月 1日 (木)

『星の王子様』・その宗教学的意味

 サン=テグジュペリ作『星の王子様』ほど、不思議な作品はない。子どものころ、この作品をさっぱり理解できなかった。きっと自分には読解能力がないんだろうなと、理解することを諦めた。そして大学時代、なぜか宗教学でこの本にまためぐり合った。講師できていた牧師さんの解釈講義であったが、そのときもさっぱり分からなかった。自分にはキリスト教学的コンセプトが希薄なのだろうとまた諦めた。

 昨年大学受験の英文テキストでまたまた『星の王子様』に出会った。英文講座で使用したが、やっぱりどこまでがメタファーで、どこからが単なるメルヘンなのか苦しんだ。

 3日前、私がPCの前でキーボードを必死に打っていると、妻がなにやら本を読んでいる。珍しくシュタイナー関連の本ではなさそうなので、タイトルを盗み見ると倉橋由美子訳の『星の王子様』だった。

 彼女に失礼かと思いつつ、「その本分かる?」と問いかけたところ「いいえ」と簡潔な回答が返ってきた。なるほど・・・。この本は理解できないから売れているんだろうなと変に感心した。やっぱり不思議な本である。

 よくこの作品で読書感想文を書く中学生がいるが、すごいな~と感心する。感想が書けるということは、少なくとも感銘をうけ、この作品を咀嚼(そしゃく)出来たのだと思う。

 そこで中学生に負けじと、この連休の間『星の王子様』の作品を今一度手に取り、自分のわずかばかりの教養と知性を総動員してこの作品を考えてみた。そして以下のような思考(幻想?)に迷走していったのである。私のかってな感想である。

 この作品の王子様は、我々地球人の魂なのだ。フロイト的に考察するところの集合の意識というやつである。それでなぜ当てもなくいろんな星を探検するのかというと、魂の修行のためである。宇宙の中で進化し続ける人間の輪廻の物語なのではないだろうか。そんなことを、感じたのである。長い考察の割には、わずか3行ほどの感想で終わってしまったが、妻が後日この作品を読んで、「魂の話じゃないの」と軽く受け流した洞察力というか直感力にはちょっと脱帽である。

 『星の王子様』を読むと、デミィニッシュコードを多用する難解なジャズを想像してしてしまう。最初はメロディーが難解過ぎて、敬遠してしまうのだが、日々聴いているうちに、その複雑なコードが心臓の鼓動だったり、自然の風だったり、さまざまな情景を運んでくる。まさしく『星の王子様』もそういった感覚的な作品である。

 

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