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2008年4月16日 (水)

満開の桜に縄文を思う

 子どもの頃勉強が好きだった親御さんはどれだけいるだろうか。正直言ってそんなにいないだろうと思う。私もそうだった。自分が楽しいことをやっている方が安らぐし、気持ちが良い。故にこども達も本当は勉強は好きじゃない。言うまでもない。

 勉強しないと良い高校に入れない。大学に進めない。良い職に就けない。良い暮らしが出来ない。たいていの子どもは親にそのような観念を与えられ育てられる。

 今の生活に満足していない大人は、もっと頑張っていれば現状は違っていたと思うだろう。あの時もっと勉強していれば、あの時ちゃんと資格を取っていれば、過去をふり返ると後悔のオンパレード、誰もがそうだと思う。そして親から子へ、子から孫へ、勉強しなさいメッセージは綿々と受け継がれていく。

 親は子どもに一番何を人生で求めているのか、そこが教育の本質でもある。「精神、物資両面で豊かな生活を送ってもらいたい」これが現代の親御さん達の願望だろうと思う。

080416_155511 080416_154948 現代の幸福というものを考えるとき、私はいつも縄文時代の日本人に想いを馳せる。動物を追い、木の実を求めて自然と共存していた時代。家族や一族の協力なくしては生きていくことは出来なかったはずだ。

 捕った獲物はみんなで分かち合い、自然の摂理に身を任す生活だったろうと思う。

 縄文土器を見て欲しい。あの芸術性を持った人々の精神性はいか程であったろうか。骨から作る釣り針一つ見ても、その形や実用性は現代に通用する。

 物質的所有の多さを幸福の尺度にしている現代文明は、弥生時代から始まった農耕文明に端を発している。作れるものとそうでないものの差がやがて2000年の時を経て、現代の階級社会を作ってきたと言っても過言ではないだろう。人より多くのものを所有すること、その手段を教えてきたのが農耕文明以降の教育であったろうと思う。そして現代もその本質は変わらないような気がする。

 時間に追われ、タイムカードに縛られ、残業にNOと言えず毎晩真夜中に帰る人々を見て、自然の流れの中で悠久の時を過ごした縄文の人々は、我々をどう眺めるだろうか。

 中3生が修学旅行に行き、今日はほとんど指導する生徒がおらず、教室の2階から川土手の満開の桜をずうと眺めていた。こんな日も時には良いものだ。

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