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2008年4月

2008年4月30日 (水)

寺子屋金さん第3話

 寺子屋金さんは、最近ある真実に気づいたのである。それは女は強いという普遍的真理にである。

 春のこの時期、寺子屋では塾生達が恋の話で盛り上がっている。修学旅行で誰と誰がいい感じになったとか、○○ちゃんが振られたとか、まあ賑やかである。

 老婆心で私も恋のキューーピット役をかって出ようと思うのだが、はっきり言って邪魔なようである。先日恋に破れた我が塾生は、ため息交じりの塾の日々が続いていた。「俺の人生終わった」などとのたもうて、さっぱり勉強に身が入らない。

 慰めようと若きころの私の失恋話など披露するのだが、ますます傷口を広げてしまったりして、受験指導のようにうまくはいかない。まだこの時期だからいいものの、これが秋ともなるとたいへんである。受験を前にした男子生徒の失恋は、目も当てられない。成績が重力を味方に急降下である。悲しい男のさがなのである。

 一方女子生徒はたくましい。「私振られた~」と自習室に入ってくるなり、友達を相手によくもまあ言葉がでてくるな~と思う勢いで恋の顛末をぶち上げ、ポテトの袋を3袋もあっと言う間に空にしてしまうのである。気づくと一月後には、ちゃっかりと新しい相手を見つけているのである。開き直りというのか、図太いというのか、やるものである。

 他の塾ではどうか分からないが、寺子屋金さん宅では、失恋して成績が落ちていく女子生徒はいない。逆にそれをばねにして、勉強に集中することの方が多いのである。恐るべしポジティブ思考である。

 「彼女に振られて、うちの子勉強に身が入らなくて・・・」そんな相談を親御さんにされるたびに、男はデリケートだな~としみじみ思うのである。もう少し女性のたくましさを見習って欲しいと思う寺子屋金さんなのである。

 さてゴールデンウイークも終わると、運動会の季節がやってくる。金さんの時代は、ホークダンスというのがあって、唯一女の子の手を堂々と握れる晴れのイベントであった。数合わせのために、女子パートに並んでしっまた男子生徒は悲劇であった。

 失恋した男子生徒を見ると、なぜかあの時の、男子とばかりダンスを踊っていた自分を思い出してしまうのである 

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2008年4月29日 (火)

『子どもが生まれる順番の神秘』

 カール・ケーニッヒ著『子どもが生まれる順番の神秘』を久しぶりに読んでみた。同じ両親の元に生まれてくるこども達、順番によって性格や性質が違うな~というのは、塾生の兄弟達や、我が子達を見て実感する。

 カール・ケーニッヒ氏はこの本の中で、生まれる順番による性格の特徴を次のように三つにまとめている。第1子は世界を征服しようとし、第2子は世界と調和して暮らそうとする。そして第3子は世界と直接関わることから逃げようとするのだと。ちなみに一人っ子は、佇んで果てしない世界を見つめ続けると記されている。実に面白い表現だ。

 そうなると私などは、宇宙の果てまでも眺めようとする、自称かねごん宇宙人ゆえ、やっぱり一人っ子なのだろうかと思うわけだけれど、真相はいかに・・・・・

 両親の元に生まれてくる一番最初の子どもは、親の感動や家族の期待、夢、希望、その他もろもろのものを背負って生まれてくる。王子であり姫であり、そしてある種の独裁者であるわけだ。そこに弟なり妹なりが生まれると、第1子の苦悩と葛藤が始まる。自分が独占してきた親の膝の領土権は、消えうせてしまい、代償として世界を征服しようとするのだろうか。

 現代は一人っ子が多くなった。果てしない世界を夢見る、夢追い人が多いのだろうか。実は私も一人っ子であるのだが、叔父や叔母とそんなに年が離れておらず、大家族の中で育ったものだから、末っ子の気質を持っていると自分を分析している。兄や姉達の大人とのかかわりを学習して育つゆえ、末っ子は自分が関わりたくないものからうまく逃げる術を身に着ける。

 カールは著書の中で、第3子の末っ子は高尚な望みを持ちすぎるゆえ、達成にたどり着く時間が長いと述べている。つまりよく言えば大器晩成型気質、悪く言えば理想主義者ゆえ内省的で孤立主義的気質を持つということだろう。なんとなく自分に当てはまる。私は末っ子気質なのだろなと思う。

 私は二人の息子を育ててきたが、どの親御さんも口にするように、長男長女は素直で育てやすい。2番目は反抗的であり、我儘な気質が多分にある。カール氏が言うところの世界と調和し暮らそうとする第2子の気質を疑うのだが、ひょっとすると世界と調和して暮らすように一番気を付けて育てよというメッセージだったかも知れない。

追伸

 私が今回紹介したこの本は、日本ではパロル舎より そのだ としこさんの訳で出ております。シュタイナー教育の入門書として広く読まれていますが、残念ながら絶版となっております。興味がある方は古本屋さんや、インターネット等で捜してみてください。とくに現在子育てに奮闘中の若いお母さんには、ためになる本かと思います。

 

 

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2008年4月28日 (月)

10億円年金横領問題と国家という名の台所事情

 日本の国の累積赤字が増え続けている。これが一般の家庭なら台所は火の車どころか、破産状態だ。

 私のような貧乏人が言えば、負け惜しみにしか聞こえないが、国のトップに立つ人間もお役人も、本当はお金のありがたみなんか分からないんじゃないだろうか。小さい頃から苦労を知らず、育ちの良さと、サラブレット的血筋の良さでポジションを獲得してきたやからが多いように思う。

 二世政治家が国会を独占し、ぼんぼんばかりがひな壇を飾る。政党政治ではなく製糖政治だ。甘い汁を撒き散らし、そこに寄ってくる人達を絡めとっていく。情けない限りである。

 企業や団体が政治家を支援するのは、どれだけ自分たちに利益をもたらしてくれるかであって、それ以上でもそれ以下でもない。政治家の理念や政治思想などは二の次、三の次だ。

 国会や地方議会で発せられる野次ひとつとってみても、政治家のモラルが分かるだろう。やくざとなんら変わらない人相、風貌そして発言。「お金を持っている人が勝ち」これが今の政治だ。

 100円ショップに行って見るとよい、税込み105円のお茶碗を買うにも、お母さん方は何度も手にとっては思案している。そんな国民の気持ちが彼ら政治家に分かるはずもない。だいたい100円ショップなど行ったことがないだろう。料亭で美食と美酒に酔いしれる日々の政治家に、ハングリーの精神をと言ったところで、サハラ砂漠にコップ一杯の水を撒いて何とか植物を育てようとする行為に等しい。

 お金持ちによる、お金持ちのための、お金持ちの政治である。

 子供のいない老夫婦が、二人寄り添って必死に年金生活をしている姿に、私は本当に涙があふれてくる。国民年金だけで生活することがどれだけ大変なことなのかを、なぜ理解できないのか、私は政治家の考えていることが分からない。医者に行きたくとも、行かれない高齢者が今後増加していく。

 トップの政治家のバカさかげんが、全国で働く公務員にも伝染してしまっている。先頃報じられた10億円年金横領事件である。横領したお金を競艇に注ぎ込むなど、もちろん論外であるが、その10億円の横領に気づかなかった組織そのものに私は耳を疑ってしまった。責任者は「本人は10億円を使ってしまったので、お金は戻ってきません」などと発言しておったが、ふざけるんじゃない!!

 課長以上、役付けのものは、全員退職金を辞退するくらいの責任があってしかるべき事態である。本当にふざけている。市民の方々が、その年金を納めるためにどれだけの汗と涙を流したことか。これが企業ならば、役員全員解雇処分、会社も倒産が必至である。

 公務員に日本の制度は甘すぎる。たとえば教員の1年休養保障もいい加減な使われ方をしている。重度の病気や怪我、そして先生方の出産などに対しては、非常に大切な制度である。がしかし、私が市内で過去に置いて知っている事例では、教室に入るときに黒板けしを頭に落とされて1年休職とか、お子さんを亡くされて1年休職というケースがあった。

 おそらく神経症等の診断書が提出されたのだろうが、いかがなものだろうか。これが塾教師なら即解雇。経営者ならば即廃業である。

 救急車で病院に運ばれて、主治医に土下座して家に返してもらって、翌日から塾で授業をやったなどという塾教師はざらである。それは自分の生活がかかっているからだ。何の保障もないからだ。だから毎年過酷な受験指導も乗り切られるのだ。生徒の将来、家族の生活、もろもろのためである。私もそんな多くの塾教師のうちの一人である。

 だから言わせてもらう。お金がないので、じゃ借金をという国家の在りようを変えなければならない。政治家や公務員の体質が今のままでは、必ずやわが国は沈んでしまう。そういう意味では、大阪の橋本知事のような方に何とかがんばってもらいたい。今の気概がポーズではなく本心であることを願わずにはいられない。

 

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2008年4月27日 (日)

ショック パソコンが!

 3日前パソコンが壊れた。すべての記録が消失してしまい、保存していた書類やメール類がすべて消去され、私は茫然自失

 ブログだけはサーバーに保存されていて助かったが、7年間の思いが消えた。今は頭が真っ白。3日間メールが送信できなかった皆様には、大変ご迷惑をおかけしました。

m(_ _)m  心の整理がつきましたらまたがんばります・・・・・。

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2008年4月26日 (土)

プロの教師とは

 神奈川県のとよ爺先生は、いつも歯に衣を着せぬ表現で教師像を語ってくださる。特にこの季節、学校ディビューや塾、予備校ディビューをした先生方も大勢いることと思う。ぜひ一読してもらいたいと願いつつ、先生のブログを紹介させていただく。
塾屋の順風:自分の磁力を知れ!⑬
授業をする上での最初の基本は分かってもらえたと思う。
読むまでもない当然のことといつもこのブログを読んでいただいている人は思ったに違いない。
では次はどうかと言えば、自己本位の授業をしないことだ。
初心者は相手の反応を見ずに、自分が教えたいことをお構いなしにやったりする。
子供たちは主役が自分たちではなく、目の前の先生になったりすると、
「あの先生の授業はわかりにくい」と話すわけだ。
子供たちに言わせれば、自己中の授業ほど煩わしいものはない。
そういう者に限って、「自分は自己中ではない」と言い切り、
理由を聞くと、「生徒を均等に指名して、私の授業は生徒を参加させています」などと言ったりする。
生徒にとって、講師の気まぐれでさされるのだから、迷惑千万な話である。

こういう講師は生徒と自分との間に流れる間合いが読めない。
今流行の「KY先生」とでも良いのだろうか。
こういう先生は頭でっかちで、わがままに育ってきた者がなる場合が多い。
私はこういう講師を見ると、子供が子供を教えているといつも感じてしまう。
これは塾講師に限らず、学校の教員を見ても、すぐにわかってしまう。
本当にこういう先生が増えてきてしまっている。
学校の場合、ベテランの先生は大丈夫だろうなどと思うが、
特に年配の先生にこういう類の人が最近特に増えてきたように感じる。
今の子供は「この先生はダメ」と一度思ってしまったら、その先生の前ではあまり自己表現をしない。
ゆえに子供先生は、言われない限りわからないので、そういうことに気がつかない。
結果、どんどん子供たちにとっては「手の付けられないKY先生」になってしまうのだ。


相手は子供で、教える側は大人である。
どちらが最初、相手の心理をくみ取り、歩み寄らなければならないのかは誰でもわかるはずなのだが、
昨今の先生にはそれがわからない人が非常に増えてしまった。

相手のしぐさから、相手のニーズをしっかり汲み取って、
それに適合したペース、教え方で授業をしなければならない。
また相手の心理を読み、今は教えても入っていかないと思ったら、
教えたことが入っていく心理状態に、子供を持っていかなければならない。

それもプロとして、最低身につけておかなければならないスキルである。
時には授業を離れて雑談するのも良いだろう。
あまりにもやる気がないのなら、しっかり怒るのも良いだろう。
少しの弛みなら、喝を入れるのも良いだろう。
大事なことはそういう方法論をたくさん持っておくことと、
どういうときにそれを使ったらよいか自分なりの尺度や基準を磨いて、持っていることである。
体系的にきっちりと考えて、「持っておこう」と考えれば、誰でもひとつやふたつはできるはずだ。
そういうところを突き詰めて考えるのがプロフェッショナルなのだ。
 
 その通りだと思う。確かに生徒が先生の能力を見限ってしまうと、先生の前では自己表現をしなくなってしまう。従って先生自身も生徒を本音を知るという、教師としての大事なライフラインを構築出来なくなってしまう。生徒の本音を引き出してこそ、指導のスタートラインがあるのだと思う。とよ爺先生大切なお話しありがとうございました。
 勝手に引用させていただきました。申し訳ございません。
 

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2008年4月25日 (金)

『わらしべ長者』にみる願望達成の極意

 子どもの時も、そして今も大好きな昔話に『わらしべ長者』がある。誰もが知っているお話しだと思う。一生懸命働いて長者どんになるとか、とても正直者で長者どんになるという話ならばいっぱいあるが、この話はラッキーな物々交換の連続で長者どんなるというちょっと異質な昔話である。

 道で拾ったわらに、飛んできたアブをくくりつけそれをミカンと交換し、反物と交換し、馬と交換し、そしてお屋敷を手に入れ長者になっていく話である。とてもシンプルだが、私はこの話には幾つかの大切なメタファーが盛り込まれているような気がする。

 一つには、欲望の回避である。少年は相手が欲しがるものをすんなり与えていく。見返りを求めない故に、より良いものを結果として手に入れていく。

 二つ目は疑念の回避である。神様に願い事をした少年は、長者になるということに一切疑いを持たない。この一見矛盾する二つの事柄が、実は人間の願望を現実に近づけていくツールなのではないかと考えている。

 物にとらわれない、こだわらない、その心情ゆえに願望がたやすくなる。わらしべ長者の話を読んで、「あり得ないだろう」と思うようでは夢はほど遠い。「実におもしろい、現在の世の中にも同じ事がありそうだな」とわくわく出来る人は、人生の成功は大だろう。

 塾生で「私こんなに頑張ったのに成績が上がらない」と嘆く生徒がいる。私はいつも「それはラッキーだ。エネルギーが蓄えられたんだよ。もしすぐ結果が出たのでは、エネルギーが枯渇してしまう。きっとどか~んとやって来るぞ、良いことが」そんなふうに慰めて、いや失礼励ましている。

 一度強く願った事は、一度放り投げてみるとよい。つまり意識することをやめることだ。すると忘れた頃にふと願いが叶っていたりする。そんな経験はないだろうか。

 祈りも同じだと思う。神社やお寺や教会に行くと多くの人が祈りを捧げている。家族のこと、健康のこと、仕事のこと、さまざまだろう。私も塾に神棚を置き、塾生の日々の努力合格を祈願している。塾生の中にも信仰心が厚く、神棚に頭をさげていく生徒がいる。

 祈ったならば、そのとらわれから一度去ることだ、まるでもう叶ったかがごとくに。

 祈りとは意を乗せる事だと、誰かが書いていたような気がするが、まさにその通りだと思う。自分の意識に願望をインプットする事で、願望達成の映像をイメージし、そのことがまるで既に現実化しているかのように脳に勘違いさせ、現実を作り出す。それが祈りのテクニックだというスピリチャルな啓蒙家は多い。

 わらしべ長者の話にも言えることだが『既に成功しているイメージ』、これが出来る人は、確かに成功しやすいだろうと思う。○○が叶いますように、ではダメだということだ。もう既に叶ったことにして、神様に感謝申しあげると良い。

 私のブログを読んでくれている塾生諸君!ぜひお試しあれ。

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2008年4月24日 (木)

私の本棚

 今までいろんな本を読んできました。何度か繰り返し読んだ本もあり、あまりのくだらなさに投げつけた本もあります。今日は、私が生きてきた時代の節目節目に、私を励ましてくれた本達を紹介します。感想はいっさい書きません。どうぞご覧なって下さい。

 みみず書房 神谷美恵子著 『存在の重み』

 岩手日々新聞社 小菅敏夫著 『小菅敏夫詩集』  

 文藝春秋 『ロバート・キャバ 写真集』

 NHK出版 高橋克彦著 『炎立つ』

 英潮社 池谷敏雄著 『英文学における地獄と功罪』

 情報センター 藤原新也著 『東京放流』

 東京創元社 E・フロム著 『自由からの逃走』

 講談社 出口日出磨著 『生きがいの創造』

 三宝出版 高橋信次著 『心の原点』

 新潮社 ヘルマン・ヘッセ著 『知と愛』

 中央公論 ホイジンガ著 『ホモ・ルーデンス』

 PHP 森眞由美著 『直感で生きる』

 徳間書店 エンリグ・バリオス著 『アミ小さな宇宙人』

 新潮社 会田雄次著 『決断の条件』

 大和書房 トマス・ゴードン著 『親業』

 サイマル出版 ハーバート・パッション著 『英語化する日本社会』

 サイマル出版 稲田耕三著 『高校放浪記』

 大和出版 芥川龍之介著 『生きることへの懐疑』

 新声社 八杉春実著 『人間が好き』

 毎日新聞社 外山滋比古著 『言葉の力』

 PHP 梅原猛著 『宗教の自殺』

 小学館 梅原猛著 『森の思想が人類を救う』

 PHP 足立育郎著 『波動の法則』

 サンマーク出版 ニール・ドナルド・ウオルシュ著 『神との対話』

 PHP ブライアン・L・ウイス著 『前世療法』

 私の命を救ってくれた本があります。悲しみを乗り越えさせてくれた本があります。私の仕事を支えてきてくれた本があります。これらの本を世に出して頂いた多くの方々に感謝の念で一杯です。本当にありがとうございます。

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2008年4月23日 (水)

文明は繰り返す

 学生の頃から、古代史や人類史に興味があり、少なからず本を読みあさってきた。仕事柄古代史を教える機会は多いのだが、教科書が正直言って胡散臭く感じてしまうのだ。塾教師として言ってはいけないと知りつつ 「歴史を鵜呑みにしてはいけない」、そんなことをついつい口走ってしまう。困ったものである。

 例えば日本の古代史のターニングポイントと言われている645年の大化の改新である。藤原氏の祖先と言われる中臣鎌足が、中大兄皇子と、蘇我入鹿を暗殺する事件であるが、本当に中臣鎌足が関与したのだろうか?倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)や南渕請安(みなぶちのしょうあん)等が中大兄皇子のもとに、志を同じくしてクーデターを企てたであろうが、中臣鎌足の名前は、後世、藤原氏の権力を確立するために付け加えられた藤原氏の改ざんのような気がしてならない。

 そんなことを言いだしたら生徒達が混乱するだけなので教室では言わない。しかし日頃の言いたい虫がうずいてどうしよもない。今日は勝手な私見を述べさせていただく。

 地球の現代の文明が、直線的な進歩の結果現れたのではないと思う。回りくどい表現をしてしまったが、簡潔に言うならば、今より高度な文明が何度も地球上に生まれそして消滅し、その循環の中に現在の文明社会が存在していると言うことである。

 日本の歴史を眺めて欲しい。卑弥呼が生きた時代からわずか2000年足らずで、この時代を迎えている。人類史10万年の歴史を考えるとき、9万8000年も、原始社会を人間は生きていたのだろうか。人間の頭脳がそれほど愚かだったとは思えない。何度も高度な文明が誕生したと仮定した方が、多くの古代史の謎が解ける気がする。

エジプトのピラミッドしかり、アステカ文明の遺跡もしかり、過去にそれらを建築出来る今以上の技術があったと考えれば謎でも何でもないと思う。宇宙人飛来説などの茶番的な発想などが巷にあふれているが、笑ってしまう。

 文明は繰り返す、これが私の歴史観だ。なぜ高度な文明が地球上から消滅してしまったのか。ある時は核戦争だったかも知れない。またある時は何らかのエネルギーの誤用だったかも知れない。科学技術の進歩と、人間の精神性のアンバランスが、悲劇を繰り返してきたような気がする。

 そして今回の我々が生きている文明もそうだ。核エネルギーの誤用が起これば、一瞬で人類は消滅する。オゾン層の破壊も深刻の極みに達している。二酸化炭素による地球の温暖化は、あらゆる生態系に影響を及ぼしている。珊瑚礁の死滅や、クラゲの異常発生などはほんの兆候に過ぎない。今対策を立てなければ、かつての文明の二の舞を見るのは明らかだ。

私は不安を煽っているのではない。希望を語っているつもりだ。問題は我々が気づくことだ。気づくことで、必ず一人一人の思いが変わっていく。それが我々が生き残っていく希望の一歩だ。私はそう思う。

 狂信的なメシア崇拝者が待ち望むように、世の終末の日に、天から救いの神が降りてきて善なる人々を救い出すなどというパホーマンスがあろうはずがない。この文明は、我々自らの意志と行動で救わなければならない。

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2008年4月22日 (火)

命の重み

 今日の私のブログの記事に300人からのアクセスをいただき、多くのコメントを全国の皆様から頂いた。現在夜の11時になるところであるが、帰宅して判決の結果を知ったばかりである。皆さんのコメントをご紹介したいところであるが、私が勝手に師と仰ぐ神奈川県のとよ爺先生のコメントを代表として紹介させて頂く。

こんにちは、毎日精力的に内容の濃い記事を投稿されていて、
本当に読みでがあります。有り難うございます。

私は前にこのブログで直接本村さんをご存じの方から、
コメントをいただいたことがあります。
文面は以下の通りです。(抜粋です)
「光市母子殺害事件の場合もそうです。

私は被害者や被害者の御主人、本村さんのお人柄などを父から聞いておりますが、事件直後から彼は本当につらい思いの連続です。

近所や地元の人でさえ、何の罪も非もない被害者や御遺族を悪くいい、本村さんがTVに出演したり、本を出版されたり、御遺族の会を立ち上げられたりと動かれるたびに、何やかんやと心ない言葉を投げかける。

これはイジメではないか!!!と思うことがたくさんありました。

事件当時、中には、子を育てる母親の立場でありながら、
“こんな事件を起こされて、うちの子の教育に悪いわ!!”と吐き棄てるように言う人さえいて、その言葉が御遺族に向けられたものだと確認したとき、返す言葉を失いました」

私がイジメの記事を書いていたときに、いただきました。
あといくつか、この件に関してのコメントはあります。
私はこう言うこともあって、いろいろな感情を抱きながら
この事件の成り行きを見ています。
特に本村さんに感じては非常な大きな思いを抱いています。
声はたぶん届かないのですが、かねごんさんと同じように
私も彼を応援している1人です。

投稿 とよ爺 | 2008年4月22日

 ある時を境に私のブログが変わったというご指摘を受けたが、間違いなくとよ爺先生のブログの影響だと確信している。記事を全国に発信するということは、ある意味勇気のいることである。当たり障りのない記事であるならば、批判もされようがないのだが、一歩踏み込んだ意見に対しては反響も多い。おそらくとよ爺先生も、時によっては筆が進まなくなるようなメールも受け取っているはずである。実は私もそうである。

 しかしである、我々塾教師はこども達のいわば命を預かっている仕事をしている。人が命輝く存在であるために、言葉を選び、思いを選んでいる。そしてその言葉なり思想なりが、正しいのか、修正が必要なのかは、自分をさらけ出さないと分からない時がある。

 「ブログに綴った自分の思いが、世の中ではどのように捉えられているのだろう」その時々の皆さんからのコメントなり、メールなりが大いなる学びになっている。先日塾の高校生から、「ブログのプロフィールに本名や個人メールをさらさない方がいいよ」という指摘を頂いたが、今後も消去するつもりはない。逃げも隠れもしないつもりである。

 子どもの教育を通して、今後とも社会を見つめていきたいと思う。そしてこども達が尊厳と生きる勇気を損なわれないよう、微力ながら言葉を綴っていきたい。とよ爺先生のように、そして本村さんの魂をふるわす勇気ある言葉のように・・・・・・。

 

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光市母子殺害事件に思うこと

 山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件から、早9年が経つ。11ヶ月になる幼子と奥さんを、殺害という痛ましい事件で一瞬にして亡くしてしまった本村さんのことがずっと気にかかり、この9年間ほぼ全ての報道記事に目を通してきた。非常にやるせない事件であり、本村さんの心情を察すると目頭があつくなってくる。

 「罪を恨み人を恨まず」という言葉があるが、自分の欲望で人をあやめることは人間として決してやってはいけないこと、その根本が揺らぐのはやはり、犯罪者の生い立ちであり、家族愛の欠如であり、教育の欠如なのだと思う。

 本村さんが事件直後「彼が出てきたら私がこの手で殺します」と、会見で述べた言葉が今でも強烈な印象として残っている。本村さんのこの発言に対して、塾内でもそれぞれの生徒達の意見が出て、私が次のような発言をしたのを覚えている。

 「死刑が人間を裁く方法として、最良の手段だとは思わない。ただ無期懲役の犯罪者が15年~20年ほどで出てきてしまうのは、被害者の遺族の心情を考えるといかがなものだろうか。恩赦や特例のない終身刑の方が、実は死刑より重い罰則のような気がする。」

 人に与えた善良なる行いは、2倍にも3倍にもなって自分に返ってくる。人に与えた悪意ある言動も2倍3倍になって返ってくる。これが私がいつも思っている鏡の法則だ。

 殺人犯がたとえ法の網をくぐり抜けたとしても、必ず裁きはやって来る。まいた種は必ず刈取らなければならない。

 今日本村さんの元に判決が届く。9年間、彼の会見でのコメントを見てきたが、安らぐ日々もなく本当に葛藤の9年間だったと思う。今日の判決が決してこの事件の終焉ではないのだけれど、背中に背負い続けてきた十字架をそっと降ろしてもいいのかもしれない。

 多くの思いを語り、そして天国にいる愛する家族のために裁判を戦ってきた彼の姿には、感服するのみである。今後彼の人生が、どうかこの事件から救われ、失った歳月を取り戻すべく道を歩まれることを祈願申しあげたい。

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2008年4月21日 (月)

軽トラ魂

 車で通学を始めた息子に自家用車を譲り、4日前から私は軽トラックで塾に通っている。

 昨日コンビニで缶コーヒーを買おうと駐車場に軽トラを止めたところ、同時にボルボが入ってきて軽トラの横に止まった。品の良いご夫婦が店に入っていった。その後私は車を降り、何気なくボルボの高級車と軽トラックを眺めてみた。コントラストが素晴らしい。

 かたや20年もののさび付き始めた軽トラと、輝くばかりの外車。不思議な気分になった。当たり前の事だが、どちらも車である。道路を走るという基本的なツールには変わりがない。しかし誰が見ても違いは一目瞭然である。日常で、これ程バリエーションと付属機能に差がある道具もないだろうと思う。金額の差も一発である。故に世の人々は車にこだわるのだ。

 田舎町でボルボのワゴンタイプに乗っているのは、たいていお医者さんである。きっと軽トラックに乗った経験もないんだろうなと思っていたところ、ある記憶が突如よみがえってきた。

 19年前父が亡くなった直後、農業を継ぐべく買った車がこの軽トラックだった。「今に見ていろ、この軽トラでいつかでっかい夢をつかんだるで~」 なぜか関西風だが、そんな気持ちで日々軽トラを運転していた若き日々を思い出したのである。

 中年になって忘れかけていたハングリー精神を、軽トラックが呼び覚ましてくれたのである(ちょっとオーバーか・・・・)。「俺には失うものなどない、前進あるのみだ」というかつての気構えを思い出させてくれた。とてもいい感じだ。

 教室の2階から、駐車場に止めてある軽トラを最近は塾生達に自慢している。「先生のクラシックカーだ」 「軽トラックじゃん」。

 「良いか先生は今日コンビニの駐車場で、高級車と自分の軽トラを眺めて優越感を感じた。軽トラックには自転車が3台も積める。木材や数百キロのお米だって運べる。たとえ700万の高級車と言えども、自転車1台積むことが出来ないではないか」

 ・・・・・・・・「単なる負け惜しみジャン」・・・・・

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2008年4月20日 (日)

ストレス解消法

  私がいつも出前を頼むラーメン屋さんがある。土曜日のお昼は教室で出前を頼むことが多い。パートのおばさんがいつも持って来てくれるのだが、先日こんなやり取りがあった。

 「実は私の兄も福島で塾を営んでいるんですが、最近鬱状態になっているんです。夜は夜中過ぎまで塾で仕事、食事も不規則に食べるものだから、太ってしまって糖尿値や血圧が高くて薬が手放せないんです。経営も大変みたいで・・・・」

 年を伺うとほぼ私と同世代の方らしい。話を聞いていたらそっくり誰かさんに当てはまる話ではないか。さらに会話は続く。

 「先生、ラーメン屋に勤めていてこんなことを言うのも何ですが、食事は野菜を中心にしっかり取ったほうがいいですよ。失礼ですが体型が私の兄に似ているものですから」

 ストレスとの戦いが塾経営者の健康を害する一番の要因だと言われている。学校の先生と徹底的に違うこと、それは生徒を自ら集めなければならないことだ。暮れの12月から3月は、受験指導のピークを迎え、まさに夕食をまともに取る時間さえない。春は春で生徒がいっきにいなくなり、経営が心配でご飯もろくに喉を通らない。

http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_e941.html 『塾コンサルタント』という記事のブログでもかつて書いたが、それでもがんばり続けなければならないのが我々塾教師である。軽い鬱になるのは塾経営者の職業病みたjなものである。自覚症状があるかないかの違いで、たいていの先生方は経験がおありではないだろうか。
 私の対処方は運動である。だいけんピンポンいうクラブチーム(二人だけだが)を作り、ちょくちょく大会に出ている。勝ち負けはさておいて、気持ちが良い。スポーツで汗をかくということは、気持ちも前向きになる。来月も大会があるが、中学生や高校生を相手に奮闘したいと思う。
 もう一つ気分転換にやっていることがある。それは気まぐれ通勤ドライブである。自宅から塾までは17キロほどの道のりであるが、さすがに20年近くも毎日同じところに通っていると、嫌気がさすというもの。通常ならば20分ほどで着く道のりを、川沿いに遡ってみたり、山道を迂回してみたり、一時間近くも遠回りして塾に行くことがある。さまざまな風景の中を好きなジャズを聴きながら走れば気分も爽快である。都会では味わえない醍醐味だ。
 もうじき山菜の季節がやって来る。塾が暇なこの時期、山歩きは私の格好のストレス解消法である。山菜の芽が出る頃、花粉症からも解放される。新緑の季節は命の輝きの季節である。今年も頑張ろう。
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2008年4月19日 (土)

「下流社会」といってしまう下品さ

前日の「希望格差社会からの脱却」のブログの記事に関して、学び舎の小林先生より真摯なコメントをいただきました。皆さんにぜひ読んでいただきたく、紹介させて頂きます。

同感です。
ついつい書き込みたくなって書いてしまいました。
『なぜ勉強させるのか?』(光文社新書)という諏訪哲二さんの本を思い出しました。少し長い引用になりますが、次のような一節があります。

「問題なのは、そういう目先の職業上の目標にからむエサをぶら下げても、若者たちが動かないことである。だいたい、人間が経済的な目標だけで動くものかどうか、大いに疑問である。「消費社会的」段階は、経済に一元化された社会であり、みんな得か損かでひとが動くように思われているが、本当にそうなのであろうか。目先の利益に関わる目標を選んでいるように見えるときでも、根底の所では別の精神的価値を同時に選んでいるのではないか。もっと魂が揺さぶられるような精神的価値や崇高なものが入ってこないと、ひとは根源的に動くことはないのではないかという気がする。」(245頁)

経済効率最優先で、経済価値を第一に考える現代社会の中で拝金主義がはびこるのは自然な流れなのでしょうが、お金で買えないものはないと言う人はお金で買える範囲のものしか見えていないのだと思います。

「お金がないことを、そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、なぜ世の中の人は気づかないのだろう。」
ビートたけしこと北野武さんの『全思考』(幻冬社)の一文です。とても真っ当な意見で、なんでこういう当たり前のことが当たり前じゃなくなってしまったんだろうと腹立たしくなります。

すみません、長々と書いてしまいました。しかし、金田先生の書いたような真っ当な意見を大人が子どもに伝えなければ、この国に未来はないと思います。

 小林先生コメントありがとうございます。勝手ながら文章を貼らせて頂きました。私の思いつきのようなつたない意見に賛同頂きうれしく思います。こども達を教える大人の一人として、なんとかしなければならない問題が山積みされています。先生のような賛同をいただくことで、また勇気をもって前進できるような気がします。

追伸

 ブログもそうであるが、小林先生の幅広い視野と多面的な思考のアンテナの感度の素晴らしさに、いつも感心すると共に学ぶ姿勢を教えられる。自分の書いたものが、第三者によって読まれることによって、自分の思想なり考えが拡散して熟成していくのを感じるとき、実は書き手を成長させるのは読み手であることに気づくのである。感謝である。

 

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2008年4月18日 (金)

希望格差社会からの脱却

 パソコンや携帯によるイジメの問題をこのブログでも何度か取り上げてきたが、『学校裏サイト』の掲示板への悪質な誹謗中傷によるイジメが原因で、不登校や自殺までもが起こっているという報道が最近なされた。本当に痛ましいことである。

 こうやってブログを日々書いている私も間違いなくネット社会の一員であるが、トイレの落書き感覚でネットに書き込みを続ける若者達の増加に、彼らの不満や欲望の迷走を見る思いがする。スポーツや芸能の世界で華々しく活躍する同世代の若者達を、テレビやメディァで見続ける若者達は、どう感じ何をくみ取っているのだろうか。

 努力をしようにも、その努力をしようとする動機さえも見いだせない若者達が多いような気がする。まさに希望を失った若者世代が拡散し続けている。PCや携帯で相手を攻撃する若者達の動機は、いたって単純なものだと思う。それは、自分より不幸になっていく人を見て、自分の存在価値を見いだそうとしているのだ。

 何が彼らをそうさせたのか。私は社会心理学者でもその手の専門家でもないので、確信的なことは言えないけれど、戦後続いてきた資本主義経済の富の追求が、人間が持つべき本質的優しさや道徳心を排斥してきてしまったのだと思う。お金を持つことが、人生の勝利者であるという無意識の波動が、子どもを、大人を、そして老人達をも拝金主義的人間に駆り立て、安らぎの心を喪失させてしまったのだと思う。

 「良い学校に入れない」 「良い会社に入れない」 「お金もない」 PCの前で、ひたすらバーチャル的快楽にふけり、現実感を喪失していく多くの若者達を救わずして、日本の将来はない。

 28歳の若者が、時給700円のバイトを一日8時間労働で1ヶ月26日間働くと、145,600円である。税金等を差し引くと年収で140万ほどだ。一方同年代の都会に暮らす一般企業のサラリーマンは、ボーナスを入れてゆうに400万円を超える年収になる。これが現実だ。「昔から金持ちと貧乏人はいた。今更何を言っているんだ」というご意見もあるかと思う。

 お金にとらわれぬよう抵抗しようとすると、お金という経済はますます強くなり手強くなっていく。意識すればするほど、現実として襲いかかってくる。経済や教育の問題も、そして若者達の希望格差社会の問題も、根っこの部分は同じような気がする。

 お金や学歴から放れ、自分が何をやりたいのか、大学を出ないといけないとか、お金がなければやれないという意識を取り払って、原点に立ち返ってみることが出来るかどうか、それが大切であり、根本的問題を解決する一歩だと思う。

 ~がないといけないという言葉の呪縛から放れることだ。よく言うではないか「人間生きていればまるもうけ」と。小さい頃「大きくなったら何になるの」と聞かれた時に、「○○になる」ときっぱりと言えたではないか。その時の輝いた眼差しは、間違いなく今も持っている。

 若者達よ、中学生や高校生達よ、自分の将来の夢や希望を、決して自分で否定してはいけない。否定する大人の話をまともに聞いてもいけない。どうせ~とか、絶対無理などと言う大人から離れなさい。希望というエネルギーを吸い取られないように。

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2008年4月17日 (木)

家庭訪問

 今日の家庭訪問を前に、昨日は半日がかりで障子の張り替えを行った。昨年の暮れから我が家にやって来たシャム猫のキラが、障子にジャンプをし全て穴ぼこ状態になっていた。まさしく廃墟と化した座敷の障子、さすがにこれは見せられたものではないと言うことで、せっせせっせと働いておりました。

 我が家が大掃除をするのは、この春の家庭訪問の時期である。師走の大掃除は、冬期講習や受験指導がいそがしく、尚かつ寒いのでやらない。「家庭訪問が月に一度くらいあれば家もきれいになるのにな」と息子が言っていたが、まさにその通り。

 ちなみに我が家は全員O型家族。A型やAB型のような繊細な神経の持ち主がいれば、ちょっとは片づくのだろうけれど、いつの間にか本や領収書類の中に、CDが埋もれていたり、靴下が片方散歩に出かけたりしている。

 家庭訪問と言えば、子どもの頃の強烈な思い出がある。昭和30年代当時小学生だった私の叔母の担任の先生が、べろんべろんに酔っぱらった状態で家庭訪問にやって来た。「先生、まあ一杯いかがですか」なんてことで、各家々でごちそうになってくるものだから、最後の訪問先に着く頃には出来上がってしまうのである。古き良き時代とは言え、顔を真っ赤にして千鳥足でやって来たあの光景は、子どもながらびっくりしたものだ。

 今はもちろん酒など振る舞う家庭はないだろうけれど、いらっしゃったと思うや否や、あっという間に帰られていく。過密スケジュールらしい。生徒のご家庭の様子を見に来るのが第一目的なのだろうから、それはそれで良いのだろうけれど、ご家庭によっては会社を休み家庭訪問に備えている親御さんも多いと聞く。責めて20分~30分の滞在時間は欲しいかなと毎年思うのだけれど、いかがなものだろうか。

 ところで塾によっては家庭訪問をする塾もある。かつて私が勤めていた塾ではやっていた。はっきり言って、指導の参考になることが多かったように思う。中には1時間以上もお話しを伺ったお宅もあったように記憶している。多忙故、塾になかなか足を運べないご父兄には必要だったように思う。

 現在、保護者の皆さんとはパソコンによるメールのやり取りや、電話での相談がメインである。共働きのご家庭がほとんどなので、家庭訪問は控えさせて頂いている。来て欲しいと言う保護者の方がおられれば昼の時間帯ならいつでもいけるのだが、お声がかからないところをみると、現状のままで良いかなと思っている。

 

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2008年4月16日 (水)

満開の桜に縄文を思う

 子どもの頃勉強が好きだった親御さんはどれだけいるだろうか。正直言ってそんなにいないだろうと思う。私もそうだった。自分が楽しいことをやっている方が安らぐし、気持ちが良い。故にこども達も本当は勉強は好きじゃない。言うまでもない。

 勉強しないと良い高校に入れない。大学に進めない。良い職に就けない。良い暮らしが出来ない。たいていの子どもは親にそのような観念を与えられ育てられる。

 今の生活に満足していない大人は、もっと頑張っていれば現状は違っていたと思うだろう。あの時もっと勉強していれば、あの時ちゃんと資格を取っていれば、過去をふり返ると後悔のオンパレード、誰もがそうだと思う。そして親から子へ、子から孫へ、勉強しなさいメッセージは綿々と受け継がれていく。

 親は子どもに一番何を人生で求めているのか、そこが教育の本質でもある。「精神、物資両面で豊かな生活を送ってもらいたい」これが現代の親御さん達の願望だろうと思う。

080416_155511 080416_154948 現代の幸福というものを考えるとき、私はいつも縄文時代の日本人に想いを馳せる。動物を追い、木の実を求めて自然と共存していた時代。家族や一族の協力なくしては生きていくことは出来なかったはずだ。

 捕った獲物はみんなで分かち合い、自然の摂理に身を任す生活だったろうと思う。

 縄文土器を見て欲しい。あの芸術性を持った人々の精神性はいか程であったろうか。骨から作る釣り針一つ見ても、その形や実用性は現代に通用する。

 物質的所有の多さを幸福の尺度にしている現代文明は、弥生時代から始まった農耕文明に端を発している。作れるものとそうでないものの差がやがて2000年の時を経て、現代の階級社会を作ってきたと言っても過言ではないだろう。人より多くのものを所有すること、その手段を教えてきたのが農耕文明以降の教育であったろうと思う。そして現代もその本質は変わらないような気がする。

 時間に追われ、タイムカードに縛られ、残業にNOと言えず毎晩真夜中に帰る人々を見て、自然の流れの中で悠久の時を過ごした縄文の人々は、我々をどう眺めるだろうか。

 中3生が修学旅行に行き、今日はほとんど指導する生徒がおらず、教室の2階から川土手の満開の桜をずうと眺めていた。こんな日も時には良いものだ。

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2008年4月15日 (火)

前世の記憶

 塾教師をしていると霊能者関連の相談にたまに遭遇する。お子さんの不登校などで悩む親御さんの中には、わらをもつかむ想いで霊能者さんとよばれる方を訪ねる方もいる。「先祖のカルマだ」「供養が足りない」等のアドバイスを受け、中には高額の供養料を支払う方もいる。

 私は霊能者と名乗る方の99パーセントはペテン師か詐欺師の類だと確信している。検証出来ないことは何でも言える。結果には必ず原因がある。その分析をやらずして宗教や霊能者関係に走ることには慎重をきしたいものである。

 人間は想いを変えれば、態度が変わり、態度が変われば言葉が変わり、言葉が変われば運命が変わる。私はそう信じている。子どもを救えるのは間違いなく親の愛である。親が変われば子どもも変わる。そのことに心の奥で気づくかどうかである。

 お金で解決できないことも、病院で治らないことも、愛情という人間の究極のエネルギーが奇跡を起こすことがある。私は何度も見てきたし経験させられてきた。『想い』という究極の霊能力を全ての人間が持っている。信じて欲しい。

 祖先の霊が自分の愛しい子孫に祟るはずなどない。例えばそう思っただけで、心のどこかに共鳴が起こらないだろうか。『想い』とはそういうものだ。

 20代前半まで私は有物論者だった。死ねば人間は窒素や二酸化炭素に分解され、自然に帰っていく。一度きりの人生なんだから、せっかく生まれてきたのだから頑張らねば、そんな想いで生きていたような気がする。大学の講義で聞いたキリスト教学のように、神のもとに帰るという概念は受け入れがたかった。

  我が家は曹洞宗である。塾の合格祈願には神社に行く。大学はちなみにキリスト教の大学だった。宗教的には節操がない。

 今でも覚えているが、妻と結婚するときに、教会で結婚式を挙げたいというので市内にある教会に電話をかけたが、当時(22年前)全部断られてしまった。あるシスターからは「仏教の本質も分からない檀家の方が、ファッションで教会で結婚式を挙げたがるのは迷惑です」ときっぱり言われた。返す言葉がなかった。

 そんな私を変える一冊の本との出逢いがあった。ブライアン・L・ワイス著『前世療法』である。山川紘矢・亜希子夫妻による翻訳でPHPより出版されている。精神科医であるワイス氏の催眠療法の実例が掲載されているのだが、心の癒や家族の絆について深く考えさせられる本であった。

 「先生死んだらどうなるの」 おそらく多くの先生方が遭遇し、答えに窮する質問ではないだろうか。

 「確証はないけど、人間には生まれ変わりがあるって書いている本もあるようだ。子どもが前世の記憶を持ったまま生まれて来るケースもあるらしいよ」私はこんな感じの回答をする。これ以上は入っていかない。後はこども達がいろんな本との出逢いや、経験を通してそれぞれが導かれていく問題のような気がする。

 塾生と、高校の倫社のレベルで宗教や哲学を論じ合うこともある。数年前、医学部志望の女子生徒と、キリスト教に置ける輪廻転生は容認されているのかという話題の話をした。彼女が医学部の推薦を受けたさいに、なんと「輪廻転生の問題は医療にどのような関わりをもたらすか」、という論文のテーマが出たという。私の得意とするシンクロシティである。

 彼女は入試から帰ってきて、「あの会話のおかげで書けました」と、信じられないという表情を私に見せた。彼女は医学部を終え現在女医になっている。

 

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2008年4月14日 (月)

体育系VS文化系

 塾のすぐ近く磐井川の堤防は、市内の一関一高や一関修紅高校の運動部の高校生がランニングに利用している。夕方の生徒のいない時間、私も散歩に利用するのだが、高校生の挨拶が実に気持ちいい。

 すれ違う市民の方に「こんにちは」 「失礼します」 と声をかけ通りすぎていく。なかなか出来ることではない。特に女子ソフトボール部や、野球部の高校生達は、わざわざ帽子をとって挨拶する子もいる。素晴らしい!

 何かとスポーツ推薦やスポーツ重視の学校運営に批判も多い昨今であるが、部活をしている生徒達の態度を見ていると、スポーツをやっている子ども達はいいな~と思うのである。先輩方や指導者の皆さんのご尽力のたまものであると思うが、奢ることなく、勉学と両立させ努力していってもらいたいと思う。

 スポーツを通して鍛えた肉体や精神力は、決して無駄ではない。ただ人間社会には違う多くの面もある。全てをスポーツで培った尺度で測ってしまうと、さまざまな問題が生じることもある。体育系の諸君はそのことを忘れないで欲しい。

 私もかつてバリバリの体育系の生徒であったが、今振り返ってみると、ずいぶんと繊細さに欠けた言動も多かったような気がする。反省しきりである。

 文化的価値の素晴らしさは、大人になって実感することが多いのだが、スポーツ少年小僧の頃は、歌を歌うことや絵を描くこと、書をしたためることを何かと軽んずる傾向がある。それはそれで致し方ないのかも知れないが、文化系の少年や少女達をいたわる気持ちも持って欲しい。

 中学校では、今週修学旅行が始まる。帰ってくると運動会の準備がスタートする。対抗リレーなどに出場する花形選手が脚光を浴びがちだが、看板を作成したり行進曲を演奏する文化部の努力があることを、決して忘れてはいけない。

 

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2008年4月13日 (日)

今日は種まき

 今日は家族5人と監督役のシャム猫のキラで、お米の種まきをやった。例年であればハウスの中は暑くて半そで姿でやる種まき作業が、今日は寒くてジャンパー姿であった。桜が咲き始めたとはいえ、北国はストーブがまだまだ必需品、寒い一日だった。

 我が家の稲作の品種はササニシキである。ほぼ無農薬で栽培している。そして天日干しである。我が塾の講師の先生も、美味しいと言って買って頂いている。それほど作っているわけではないので、みんなに売るほどはないのだけれど自慢の一品である。

 老犬のボブもご飯が大好きである。ドックフードよりご飯派の粋なワンちゃんである。したがって我が家のお米の消費量はすごい。1ヶ月60キロは食べている。ご飯を炊く水も、塩素の入った水道水ではなく、地下水の井戸水である。実に美味しい。

 もうすぐトマトや胡瓜、そしてカボチャやピーマンの苗植えが始まる。私のように農業を営んでいる塾の先生も全国には多くいらっしゃるようだ。土に育てられる作物を見ていると、どこか教育と似ているところもある。その年々の天候や、耕す人の気分にも作物は影響を与えられる。

 花を育てた経験のある方なら、感じることがあると思うが、毎日声をかけてやった花と、完全に無視をした花では成長の度合いが明らかに異なる。不思議なものだ。かの宮沢賢治は、やませが吹く寒い夏は田んぼに行って「がんばれ、がんばれ」と稲に声をかけて歩いたという。賢治の気持ちが分かるような気がする。

 稲の芽が出ると、苗箱への水掛が毎日の日課になる。今年は何か素敵な歌でも口ずさみながら水まきをしようかなと考えている。お米も歌に応えて、美味しい実りをもたらしてくれると思う。

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2008年4月12日 (土)

希望のメッセージ

 20代の前半東京から岩手の実家に戻ってきて、半年間ほどプータローをしていた。塾教師を辞め、新しい道を模索していたのだけれど、シュタイナーの教育学に出逢い、私の仕事の行く末が決まった。

 「魂の本質は学びである」 宗教家が言えばかなり胡散臭いこのフレーズも、教育を実践してきたものが言うとき、我々教える立場の人間が襟を正し進まなくてはいけない一つの道標となる。

 思春期から読みあさってきた文学や思想の一つの到達点が、私にとってはシュタイナーの人智学だった。私の教育に対するもやもや感を、払拭してくれたと言っても過言ではない。「子どもは親を選んで生まれてくる」 「人間は宇宙から与えられた特別な使命を持って生まれてくる」 イデオロギーや宗教、そして自分を構築してきた哲学を超越したところで、深い共鳴を彼の教育学に感じた。

 若い頃不登校の問題やいじめの問題、家庭内暴力等の問題に直面した時、一人じっとこれらのフレーズを繰り返し、そしてかみしめていた。一人一人の人間には、途方もない使命と役割と目的がある。それをこども達から失わせてはいけない。20年以上たった今でも、私の教育のバイブルであり指導の原点である。

 全国でシュタイナー学を実践されている先生方がたくさんおられる。私などは、ドイツに留学したわけでもなければ、専門のシュタイナー学校で勉強したわけでもない。本だけの知識である。したがって塾のパンフレットにも、案内書にも一度も『シュタイナー』の文字を入れたことはない(このブログでは何度か使ってしまったが・・・・)。

 シュタイナー学の実践者ではないが、シュタイナー学のエッセンスは、子どもと接する時に常に私の言葉や心と共にあったと思う。そして4年前のこと、「シュタイナー学を取り入れた幼児教育を実践したい」という我妻の声を真摯に受けとめ、『風と虹の教室』を開講した。若いお母さん方が集い、親子で絵や造形に親しんでいる。

 今は妻が完全に私の知識を凌駕し、シュタイナー教育を実践している。彼女の本音は、ドイツに行って本格的に学びたいらしいのだが、前回のブログでも書いたように、私の経済力を考慮し自動車学校のお金を息子がいっさいバイト代で払っている我が家にそんな余裕はない。したがって彼女は読書三昧である。

 来年には日本で出版されたシュタイナー学の本が、我が家に全部揃うのではないかという勢いである。このブログを打ち込んでいた先ほども、アマゾンから宅急便で新たなるシュタイナーの本が配達されてきた。それも代金引換である。妻が既に教室で指導中なので、2万ちょっとのお金を私が払う羽目になってしまった。ショック!!

 もう一度言わせてもらおう「魂の本質は学びである」。魂という言葉に違和感を覚えるならば、この言葉を「人間が生きていくための本質的欲望の中の一番純粋な部分」と表現したらどうだろう。何の為に生まれ、何をなすために存在するのか、こども達自身が希望のメッセージとして自らに問うことが出来るよう、私はこども達のその一番純粋な部分に語りかけていきたいと思っている。

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2008年4月11日 (金)

山に抱かれて

 丘陵地帯にある我が家からは、奧羽山系に雄壮にそびえたつ須川岳を見ることができる。新緑の中に、澄み渡る青い空をバックに光り輝く真っ白い峰は、神々しく美しい。

 何十年見続けても決して飽きることもなく、日々移り変わる風景は、我々の人生のごとく変遷していく。本当に素晴らしい。そしてその奧羽山脈と向き合って岩手の中心に鎮座するのが北上高地である。奧羽山脈が男性的雄壮さを呈するのに対し、北上高地は女性的な美しさを醸し出す山々である。

 北上高地で一番高く、そして賢治をはじめ多くの先人や人々に愛されてきた山に早池峰山がある。登山口から頂上を眺める時の圧倒される美しさは、他の山に類を見ない荘厳さだ。

 北上高地の最高峰であり、信仰の山として古くから崇拝の対象だった早池峰山。私が一番登った山である。30代の頃は毎年健脚自慢の塾生を引き連れ、年に2度、3度と登ったものだ。学生時代山岳部に入っていた友人らと、雨の中を強行したこともある。小田越の峰から登る朝日を見ようと、真夜中に単独で月明かりをたよりに登ったこともある。

 頂上からは、北面に岩手山が、西面に鳥海山が顔を出し、そして南面には薬師岳がせまってくる。初めて登山を経験する塾生達には、辛い行程が続く山登りであるが、頂上に到着したときの晴れ晴れとした顔は、いつも連れてきてよっかたと実感する一瞬だ。

 40を越えて、腰痛を一度患ってからは久しく登っていないが、体調もほぼ回復した今年は山開きと同時に早池峰に挑戦するつもりだ。希望する塾生がいれば連れて行くつもりである。

 山の景色を見るたびに、この地に生まれたことに感謝する日々である。意識せずとも確実に山に癒され生きている。市内の校歌には必ず仰ぎ見る須川岳の歌詞が綴られている。応援歌練習がどこの高校でも始まったようだ。須川岳~~この世代になるとどうしても温泉をイメージしてしまう。やっぱり年か・・・・・・。

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2008年4月10日 (木)

塾教師の条件

 私は講師の先生を募集する際、いっさい学歴や資格を問わない。時に一流と言われる大学を出た方が来ることもある。高卒の方が来ることもある。

 40分~1時間の面接で決めさせて頂いている。失礼な言い方かも知れないが、小学生や中学生を指導して頂くのに高学歴は必須条件ではない。話す態度や、その人自身が醸し出す雰囲気(オーラーと言っても良いかも知れない)が、私の塾にやって来るこども達に対応できるか否か、それだけである。

 1時間近くお話しを聞いていると、その人のバックボーンが見えてくるものだ。第一印象とだいぶ異なる人もいるが、その人と話をしていて、生徒と接している姿がイメージとして浮かんでくる方は、だいたい間違いない。

 高校部門の英語や論文は私が指導しているので、ハローワークの募集要項の条件欄には「小中学校の基礎学力を有する方」とのみ記載している(ちなみに現在は募集しておりません)。教師は、生徒と共に成長していくものである。もちろん学力もそうである。1年間教える仕事をして進歩なき者は、10年間やっても変わらないのじゃないかと思う。

 時間に追われ、マニュアルをこなすだけの塾教師ではすぐに枯渇してしまう。仕事である教えるということの意味を、さまざまな視点から捉えられなければならない。技術面、思想、流行、そして言語や行動学、そういった勉強の土台の上に、教師として経営者として生き抜いていく運みたいなものが、かね備わって行くような気がする。

 私の塾では、生徒の学習計画は、基本的に塾生自身が作っていく。したがって自分が何をやらなければならないのかを、生徒自身に知らしめることが、我々教師の一番大事な仕事である。日々によってさまざまな要求が押し寄せる。

 理科の電気を教えるはずが、「明日江戸時代のテストがあるので、先生今日は江戸時代で」 なんて事が日常茶飯事である。我々の即席の教科準備などほとんど無駄足である。故に日頃の鍛錬が必要なわけである。

 私の塾は一斉授業ではないので、その点では我が塾の先生は大変だと思う。連立方程式の道のり問題を解説したと思えば、隣の生徒からは電磁誘導の説明を求められる。かと思えば後ろからトントンと肩を叩かれ、「連体詞と形容詞って、何でどっちも連体修飾語って言うの」・・・これが我が塾の日常である。

 日々要求されるもの、頭の回転の速さと、すばやい機転である。そしてこれは私ももちろんそうであるが、我々教師のたゆまぬ成長である。そんなわけで講師の先生、今年度もたいへんでしょうが、わがままなかねごんをどうか暖かい目で見てやって下さい。どうかよろしくお願いします・・・

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2008年4月 9日 (水)

中学校入学式

 今日は、末の子の中学校の入学式であった。もう既に身長が170㎝に届かんとする我が息子は、正月明けに買った学生服がすでに体型にちょうど良く、今後の身長の伸び具合では、学生服があっという間に小さくなるおそれがある。もう少し大きい学生服を買ってあげれば良かったなどと、厳粛な入学式で1人要らぬことを考えていた。

 我が息子の担任の先生は、今年3月に大学を終えたばかりの、バリバリの若き青年教師である。どの先生もおっしゃることだが、教員生活で一番最初に受け持ったクラスは、一生色濃く心に焼き付くそうだ。わが子達のクラスは、23歳の若き先生と共にどんな思い出を作って行くのだろうか。楽しみである。

 入学式でおもしろい光景があった(私だけがそう感じただけかも知れないが・・)。入学式にご夫婦で来られた方々が多かったにもかかわらず、式場内ではお父さん方の姿がほとんど見受けられない。

 ふと2階のギャラリーを見上げてビックリ。実に大勢のお父さん方が、ビデオやカメラを片手に、我が子の撮影に一生懸命だった。幼稚園の運動会で、一生懸命ビデオを回していたお父さん方の姿そのまんまだったものだから、不謹慎かも知れないが思わず笑ってしまった。

 隣に一緒に座っていた、50代半ばの知人に話しかけたところ、成人式でも似たような光景とのこと。

 山登りに行くと、風景をじっくり見ることなく、やたらと写真を撮りまくっている人がいる。写真の風景はいずれ色あせていく。心に焼け付けた風景の美しさは、いつでも心によみがえる。バッテリーや残り枚数を気にしながらカメラを覗いてるまさにその時、式場内には実にさまざまな風が流れている。先生方の表情、こども達の気の流れ、ざわめきそして我々親の思い感動が・・・・。

追伸

 在校生の中で我が塾に通って来ている生徒達が、何故にかねごん先生が入学式にやって来たのかと、いぶかしげにチラチラ見ていたようだが、我が子の入学式のために行ったのである。どうかかねごんの息子だからといっていじめないで欲しい(・・・ )

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2008年4月 8日 (火)

やっぱりハングリー精神は大切

 だいぶ前に、「なぜ3代目は家業を潰すのか」といった内容の本を立ち読みした。作者名も本の題名も、もうろくしたのか憶えていないが、興味深い内容だっただけに今も心に残っている。

 実は孫に対する祖父の思いが家の存続に影響するという話だったのだが、その家の主が不本意な人生を送ると、その無念な思いが跡継ぎの孫に伝わっていき、成功を勝ち取ろうと頑張る。一方成功し裕福な主の思いもやはり跡継ぎの孫に伝わり、俺が頑張らなくとも何とかなる、そんな行動が現れるみたいな内容だった

 親の思いではなく、祖父の思いが孫に影響を及ぼすというところが異質でおもしろい。故に江戸時代では、それを察知した呉服問屋などの商人の家では、意図的に婿養子を入れ跡目を継がせ、家業を存続させてきたと書かれてあった。

 江戸時代、徳川家が15代も続いた理由の1つに、直系の血筋を3代以上続けなかったのが要因だとも述べられていた。科学的説明はできないだろうけれど、論理としてはおもしろいものだと思って読んだ記憶がある。

 「思いは伝わる」このフレーズを、最近多くの方々が使うようになった。私も塾生達によく使う。自分が成功しているイメージ。自分が幸福になっているイメージ。とても大切だよと。

 塾生の中でよく「だめだ~」 「わかんね~」を連発する生徒がいる。私は「だめだ~」と言いたくなったら、「だいじょうぶだ」と無理でもいいから口にしろと言っている。「だいじょうぶだ」は、我が塾の魔法の言葉である。志村けんがあれほどビッグなコメディアンになれたのも、「だいじょうぶだ~」の言霊ではないかと、結構真剣に考えている。

 後もう一つ、常にハングリー精神を忘れないことだ。それは家族がということであるが・・・。裕福な家庭のお子さんで、さっぱり勉強をしない子がいる。見ていると、お金が無くなったら、お爺ちゃんに言ってもらってくる、雨も降っていないのに歩ける距離をタクシーで塾にやって来る。まさに先ほどの3代目が~の話が頭をよぎる状況だ。

 自分が満たされているものだから、そういう暮らしが一生続くと思っている。したがって夢を持たないし、努力もしない。大人になって気づいたときに、祖父もいない、父もいない、残ったのは借金のみ。そんな人生にならぬよう、ハングリー精神はぜひ学ばなければいけないし、学ばせなければいけない・・・・と思う。

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2008年4月 7日 (月)

検閲に引っかかるからやめた方がいいよ

 私にブログを書くことを勧めたのは妻である。ケータイのメールも打てず、パソコン音痴の私を何とかたぶらかし、午前中本を読みながらゴロゴロしている私を、お父さん文章がうまいよね~などとおだて上げ、私をブログの世界におとしいれたのである。

 そして半年以上たった今、完全に私の方がブログの魅力に取り付かれてしまった。かといって、教科指導の手抜きをしているわけではない。何せ教室にはパソコンは置いていない。20年近く使ってきたワープロも、去年の12月に天寿をまっとうした。ブログ原稿の打ち込みは、午前中寝っ転がって本を読んでいた時間を当てている。若干読書の時間が減った気がしないでもないが、農作業が忙しくない限りは更新し続けるつもりである。

 妻もまさか毎日私がブログを書くなどとは夢にも思っていなかったようで、逆に今日は休んだらなどと優しい言葉をかけてもらっている。職業柄、大学受験の論文指導を長年やってきたわけだが、ブログを毎日書くとなると、添削とは違う回路が要求される。

 全国津々浦々塾ブログをほぼひととおり拝見させて頂いたが、文章を読むとその人の人柄が伝わってくる。ちょっと大げさだが、指導している場面までも想像できてしまう。実際、指導場面を画像で流されているみかみ塾の本田先生などもいらっしゃるが、本当にそれぞれに個性あふれる塾ブログである。

 ある日塾ブログを見ている我が塾生に、「私も本田先生見たいに映像を流そうかな~」と発言したところ、「先生の顔検閲に引っかかるからやめた方がいいよ」とのたまわれ、ショック!!

 私のブログにリンクさせて頂いている、学び舎の小林先生、富山国際学院の奥村先生、みかみ塾本田屋の本田先生、そしてとよ爺先生、各先生方の個性あふれる強烈なブログは本当に素晴らしい。文章力もさることながら、広い視野と洞察力には脱帽である。先生方今後ともよろしくおつき合い願いたい。

 また私の思いつき的文章を日々皆様に読んで頂き、多忙なところコメントも多数いただき嬉しい限りである。私など未熟な文章書きなので、いつも唸らせる文章など不可能なのだけれど、打率2割3分ぐらいはキープしたいなと思う、図々しいかねごんであるわけで、どうぞ末永くよろしくおつき合い頂きたい。

 それから私にブログを勧めた我妻も『風と虹の教室』で可愛らしいブログを書いている。たまには彼女のブログにもコメントを頂ければ、きっと妻もニコニコして、おかずの一品も増えると思うのでよろしくお願いしたい。

追伸

 先日、『風と虹の教室の』作品展が、地元ケーブルテレビで放映されました。下記に画面映像を貼りましたので、興味のある方はご覧下さい。

「風と虹の教室作品展地元ケーブルテレビ放映」をダウンロード

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2008年4月 6日 (日)

塾の先生の子ども事情

 学校の先生も塾の先生方も、自分の子どもについてはあまり多くを語らない。語りたくないのか、語らない方がいいと思っているのか、その辺は人それぞれの考えがあるのだろう。

 全国の塾ブログを見ると、我が子の成長や、我が家の受験体験記などを書かれている先生がたまにおられるが、やはり稀のようだ。前置きが長くなったが、今日は我が長男の話をちょっとしようかと思う。

 私の住んでいる田舎町では、塾を選ぶ基準の一つに、そこの先生がどこの大学を出ているかというよりは、塾長先生の子どもがどこの高校に入って、どこの大学に入ったかということが、塾を選ぶ際の大きな選択肢になっているらしいと言うことだ。らしいという表現を使ったのは、何人かの知っているご父兄の方が、そんな話を私にして下さった故の知識で、真意を確かめたわけではない。

 まあ簡単に言えば、自分の息子や娘の学習の管理ができない塾の先生に、我が子は預けられないと言うことなのだろう。

 いい訳をするわけではないが、塾の先生はたいてい帰宅するのは真夜中だ。夕食さえ家族と取ることは月に数回である。そんな状況で自分の息子を指導している塾の先生はいるのだろうか。私などいつも妻に「よその子ばかり見てないで、たまには自分の子も見たら」とお叱りを受けるのであるが、期待に応えられない自分の不甲斐なさに反省しきりである。

 今我が長男は18歳で、自動車学校に通っている。もうすぐ卒業で、今日は高速道路講習だと言って出かけていった。進学校に進まず、工業専門高等学校に通っている。今年4年生になる。きっと大学には進まず、2年後には就職をするのだと思う。

 高2の春から息子はバイトをしている。もちろん学校に許可を得てのことだが、お金に苦労をしている父親を考えてのことだろう。今回の自動車学校のお金は全て彼がバイト代で工面した。私は一銭も出していない。

 勉強はあまり好きではない倅ではあるが、働くことはいとわない。私の田んぼ仕事も文句を言わず手伝ってくれる。親の私が言うのも何だが、素直ないい息子である。息子が中学の時、学校がちょっと荒れた時期があった。彼なりに大変な目にもあったが、忍耐力とポジティブ思考で何とか乗り越えてくれた。感謝している。

 「お父さん、僕車は買えないんだけど」という息子のために、私の愛車を譲り、私は農業用の軽トラックで塾通いをしようかと考えている。ただエアコンもなくカーラジオもないので、どうしようかなと思案中のかねごんパパであった。

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2008年4月 5日 (土)

悪魔のささやきに屈してはいけない

 中学生の相談事で一番多いのが、部活動やクラス内での人間関係についての相談だ。無闇に無視はできない。つき合いを断ると今度はしかとされる。こども達もそれなりに対処しているようだが、時として許容力を越え、私のところへやって来る。

 携帯電話のメールが頻繁にきて、勉強に集中できないんだけど・・・。最近一番多い相談だ。一番良い方法は携帯を持たないことだ。しかし一度持ってしまうと、中毒のごとく手放せないらしい。

 先輩のメールに対しては、5分以内で返さないと後でいろいろ言われると、塾生が言っていた。メールアドレスを教えないと今度は部活でいじめられる。困ったものである。親御さんとの面談でいつも言い続けてきたことだけれど、中学生に携帯はいらない。携帯所持禁止令という法律を作って欲しいくらいだ。

 夜8時以降は携帯を親に預けなさい。私がいつも提案していることだ。友達に言われたら、成績が上がらないので夕食後は携帯を没収されていると答えなさい。それくらいができなければ、真の受験生とは言えないと。

 要は自己管理の問題だと思う。友達の誘いを断れないのも、まわりに迎合してしまうのも、自分に自信が無いあらわれだと思う。目標を持つことで意志は強くなる。たかだか携帯メールのつき合いごとで自分の進路を揺らがせてはいけない。

 「成績順位が10番上がったら携帯買って」 この悪魔のささやきに、決して親は屈してはいけない。間違いなく成績は下がる。危険も増える。

 例えばこのブログを読んで頂いているお母さん方、「お父さん、携帯見せて。さっき私がメールした内容消しちゃったので、貸して」・・・さて何人のお父さんがその場で携帯を渡してくれるでしょうか・・・・(笑い)。

 子どもの世界は大人の世界の相似形である。

 だから大人はジレンマに陥る。タバコもお酒も遊びも大人だからいいだろうと思うかもしれない。しかし、子どもは心の世界で、意識的にあるいは無意識的に、全てをキャッチしている。

 タバコのにおいをぷんぷんさせた教師が、中高生に「たばこなんか吸うんじゃない」と言ったところで、どれほどの説得力があるだろうか。ゆえに私は携帯を待たない。持たないゆえに、私の話はこども達に伝わる・・と思っている。

 

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英語がなぜ入試から無くならないのか

 英語ができないゆえに、どれだけの高校生が大学進学をあきらめているだろうか。仮定法や分詞構文、関係副詞に強調構文・・・etc。それに中学校の基礎英単語1500語に加えて、大学受験ではプラス3000語が必要とされる。

 例えばアメリカの高校生がドイツ語ができないからと言って、大学進学をあきらめるだろうか。国際化という幻想に惑わされ、知らない間にアジアの国々が、言語統制の体制下に組み込まれてしまっているような気がする。

 世界に誇れたものつくりの技術や伝統が、外国語習得というエネルギーに吸い取られ、大切な個々人の能力が失われていっているように思う。

 中学校で3年、高校で3年、多くの時間が英語教育に費やされる。高校3年生に、自分の紹介を英語でやらせてみるといい、名前と好きなことを言って、後は沈黙がやって来る。巨額の教育費と、巨額の人件費をかけてきた結果がこれである。

 日本人はそろそろ英語教育の功罪に気づくべきだ。ある英語教師が言っていた。毎年中学生にアルファベットやbe動詞、三人称単数のSの付け方を教えることに何の意味があるのかと。

 意味がある、それは英語が入試科目だからだ。そしてそのおかげで、多くの人達がそれを飯の種としている。もちろん私もそうだ。 入試から英語が無くなれば、きっと100万人以上の人が職を失うだろう。したがって入試から英語は無くならない。それが現実だ。

 大学の英語講座では、日本語の敬語も謙譲語も分からない学生に、シェイクスピアの古典英語を教えている大学がある。笑ってしまう。

 いつも私が主張してきたことだが、英語は体育や音楽のように実技科目にするべきである。そうすることで多くの教育の矛盾点が改善されるのではないだろうか。体育や音楽そして美術が、実技教科だからと言って、ないがしろにされているだろうか。

 音大や、美大の倍率を見れば一目瞭然である。英語を話せるこも、ピアノが弾けることも、体操の吊り輪ができることもそれぞれの優れた技術である。芸術ではあるが、必修にするべき学問ではないと思う。

 今年も新一年生が入ってきて、I  am  a  student. が始まる。私は生徒です。見れば分かるだろう。そんなギャグを言いつつ、英語が続いていく・・・・・。

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2008年4月 4日 (金)

老人に思いやりのない国家に子どもの教育を論じる資格はない

 前々回、父の思い出をブログに書かせていただいた。アクセス解析を今日見たところ、今まで書いてきたブログの中で、1人あたりの滞在時間がダントツトップであった。

 塾ブログにもかかわらず、受験の話題や教育論よりもはるかに皆さんが熱心に読まれたことに、実は正直ホッとしている。皆さんそれぞれが、父親に対する想いというものをお持ちなのだなと実感した。

 またつたない私の文章に、先輩ブロカーであるとよ爺先生より、感動したとのコメントまでいただき、まことに恐縮である。皆様にスルーされることなく、読んでいただいたことに感謝申し上げたい。

 実は父の思い出のブログを書く前、近郷のおじいさんや、おばあさん方を引率し、納税組合長の仕事の一環として、奧羽山系の麓にある温泉に宿泊しに行っていた。そこで私と顔を合わせた方々が、私の父の思い出を私にして下さり胸が熱くなった。思えば皆さんは私の父親の世代である。帰りのバスの中で、父の思い出をしたためた。

 その父親の思い出を書いた日、老人の保険医療改革がスタートした。新聞やテレビの報道だけの知識しか私は持ち合わせていないが、老人の切り捨て時代がやって来たと感じたのは、私だけではないだろうと思う。

 今まで、家族のため、しいては国の財政を支え、働き続けてきた老人の方々の医療を軽視する政治のあり方に、怒りを通りこし虚無感さえ覚える。

 介護保険の問題もしかり。今回の医療改革もしかり。表現は悪いが、日本という国が、官僚や役人を肥え太らす、旧ロシア帝国的社会主義国家になったのではないかと錯覚するような政治状況である。

 役人の天下り、そして国民年金の流用問題から端を発し、銀行や第3セクターに湯水のように注ぎ込んだ損失分を、老人の切り捨てによって埋め合わせをしようとする、帳尻の合わせ方にやるせなさを覚える。

 70歳を過ぎた私の母も、癌を患って以来、2ヶ月に一度は病院に行き検査を受けている。その検査の回数が、今後半分以下に減らされる。年収300万円時代と言われる現在、国会議員や地方役人の給料を見直すこともなく、粗悪な改革を続ける日本の政府に対して、我々国民が耐えるのももう限界なのではないだろうか。

 子どものゆとり教育を見直そう、英語を小学校に導入すべしなどと、老人に思いやりのない国家に、もはや子どもの教育を論じる資格などないと私は思う。

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2008年4月 2日 (水)

はじまるよ~

 昨日で春期学習会も終わった。初めて新小6が加わった当セミナーの春期学習会だったが、小学生が中学生よりも一生懸命だったように思えるのは私だけだろうか。

 中学生は部活が忙しかったようだ。一昨年より県立高校のスポーツ推薦がスタートし、親御さんも、生徒達も、部活動に一生懸命だ。ゆえに講習会の時間がなかなか取れなっかた塾生も多い。仕方がない。

 今日から始まる新学年の勉強は、ばりばりやってもらおう。

 4月を迎え、入塾生も徐々に増えてきた。ありがたいことだ。特に『風と虹の教室』はオープンデーの作品展が地元紙で報じられたこともあり、出足が好調である。岩手日日新聞社関係者各位に感謝申し上げたい。またこの『大験セミナーわくわく日記』のブログを、岩手日日新聞社のホームページの教育リンクに貼らせて頂いていることにも、遅まきながら感謝申し上げる。

 さて、ここ2,3日雪が降ったり止んだりの不安定な天気が続いている。桜の蕾もここに来て、震え上がっている感がある。東京もワシントンD.Cも今が見頃の満開のようだが、ここ一関は20日前後が見頃だろうか。

 そして桜の花が終われば、いっきに山は新緑の季節を迎える。私の恒例の山菜取りが始まる。息子達は最初は喜んで食べてくれるが、「また山菜かよ」と嘆く日々が来るのである。私は完全無視である。ただで手に入るおいしいタラの芽や、こしあぶらの芽を、山の中に住んでいてほっとくわけにはいかない。天ぷら、酢みそ和え、おひたし・・・・う・・春が待ち遠しい。

追伸

このブログを打ち終わり外に出てたら、今年初めてのウグイスが鳴いた。ホーホッケキョー

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