古本屋の哀愁をもう一度
どんなに忙しくとも、一週間に一度は古本屋に足を運ぶ。市内でも多くの古本屋さんが、ここ10年間で廃業していった。フランチャイズの古書量販店が進出してきた結果である。
我々塾業界と非常に似た市場原理が、古本屋さんの業界にも現れている。かつてはどこの町にも、人情味あふれる古本屋の爺がいた。「若いのにこの本を読むなんて今時の高校生にしちゃ珍しい、本代に困ったら本を持っておいで買い取ってあげるよ」なんていうオヤジがいたものだ。
私には収集癖とでも言うべき習癖があって、学生の頃から、読んだ本を手元に置いておかないと何か落ち着かない感情に支配され、2度と読みもしないだろう本までも自分の本棚に並べていた。
したがって、図書館で借りて読んだ本が古本屋にたまたま置いてあると、思わず買ってしまうという日常が続き、いつの間にかバイト代や小遣いは本代に消えていった。
その残骸が今も私の書斎(物置)堆積されている。家内には処分すればと言われるが、青春の思い出と同じで、なかなか捨て去ることができない。最近でも、おもしろそうだなと思い買ってきたところ、もう既に自分の書斎にその本が鎮座していたという珍事もしばしば起きている。増え続ける本を眺めつつ、どうしたものかと決断出来ない本好きオヤジである。
さて古本屋の話に戻ろう。最近の古本屋は明るい。若い店員が「いらっしゃいませ」と元気もいい。広い店内には、売れ筋を中心にいろんなジャンルの本が豊富である。しかし古き良き時代の古本屋の時代を経てきた私には、多少の違和感もある。
これが100円という驚きも多々あるのだが、この本が100円はないだろうという感情も時として湧いてくる。
いい本との出逢いは、金銭的にもちょっと痛みがともなった方がいいと思うのが、私の勝手な持論だ。大切な小遣いで買った本を、最初はハズレかなと思いつつも、せっかくこれだけのお金を出したのだから、もうちょっと読んでみようなどと思うのである。
時として、そんな本に限って強烈な衝撃を浴びることがあった。そんな本の中に、今も尚、人生の指針として私を支えてくれている本がある。
本のことばかりではなく、いろんな話をしてくれた古本屋のオヤジが懐かしい。今の若者にそんな場所はあるんだろうか。本離れの学生をみて、そんなことをふと考えるかねごんであった。
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