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2008年2月

2008年2月29日 (金)

チラシのお家事情

 昨年2007年は、塾のチラシを一度も新聞に入れなかった。広告も出さなかった。

 タウンページの電話広告と、このブログぐらいが我が塾の広告媒体であった。ほぼ口コミのみの入塾であった。一方2006年は、莫大な量のチラシを春に刷り、市内全部の新聞に折り込みとして入れた。

 そのチラシの問い合わせは一件もなかった・・・・・。なぜか?

 我が塾の折り込みチラシが入ったその日、野球ワールド大会で、松坂擁する日本と強豪キューバとの決勝が、朝から始まる日であった。ご記憶の方もおられると思うが、スポーツ番組としては歴史的が視聴率を記録した。

 その日の日曜日の朝、新聞の折り込みなど誰も見る人などなく、テレビに釘付けだったのである。そして優勝。おそらく人々の歓喜の中、我が塾のチラシは日の目を見ることなく、闇に葬られたのだと思う。・・・・残念。

 したがって2006年の春は、塾経営史の中で一番受験生が少ない4月の開幕であった。長く塾をやっているとそんな年もある。

 宣伝費に回せる経費は大手企業ならいざ知らず、個人塾はたかが知れている。一回数十万円も要するチラシを何度も出せるはずがない。昨年のように宣伝無しでも生徒が集まる年もあるし、来ない年もある。

 我が塾では、前年の合格実績が入塾率にリンクしない。不思議な塾である。

 教室が変わったわけではない。講師陣の顔ぶれが変わったわけでもない。違いと言えば、集まった塾生の顔ぶれである。

 自分の通っている塾をどんどん学校で宣伝してくれるタイプの生徒が多いときは、塾生が神様仏様に見えてくる。逆に、塾に通っていることを、本人も保護者も秘匿するタイプの生徒が多いときは大変である。

 経営者として生徒の指導の他に、金銭面のさまざまな問題を解決して行かなければならない。 これが個人塾の言ってみれば醍醐味でもある。このブログの名前の通りわくわくドキドキである。

 明日あたり、新聞社に広告文を持って行こう・・・・・。

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2008年2月28日 (木)

生徒募集のお家事情

 数年前のことである。リーダー格の元気な中学生の女子生徒に、○○ちゃん、もし学校で塾に行っていないお友達がいたら誘ってねと、話をふると「先生、私も楽しくていい塾だから友達紹介したいの、でもね、お母さんがだめっだて言うんだ。この塾いい塾だって紹介すると、安いし、個別だし、いっぱい集まってきて、今までのように指導されなくなるよって。」

 私は友達を紹介してくれた生徒にはこう言っている、「他の塾がやっているように、図書券や金券等をあげられないけど、生徒を紹介してくれた君には、今までもそうだけど、今まで以上に心を込めて指導するよ。」

 するとちょっとにやけて、「なんだお金やものじゃないのか」とガッカリしたそぶりを見せるのだが、本心はうれしそうである。

 お金やもので塾生を営業の担い手にすることだけは、私は絶対したくない。それくらいの最低のプライドは塾教師として持っているつもりだ。

 今年も受験指導が終わる。中3生が3月11日に県立高校の入試を終えると、また来期の生徒募集が始まり、4月から5月にかけて新しい塾生が入って来る。市内の塾では、小学校や中学校の校門でチラシ配りが始まったようだ。昨日塾生が教えてくれた。

 「先生、うちの塾はしないの」この時期になると、私の塾の経営まで心配してくれる生徒がいて、聞いてくる。

 私の基本姿勢として、とにかく最後の県立高校の入試が終わるまで、生徒募集の外での営業を、私を含め先生方ではやらない。今いる受験生の、指導の集中が必要だと思っている。

 長年塾経営をやってきて感じることだが、いくら宣伝費と手間をかけても、入ってこない生徒は入ってこないし、入ってくる生徒は入ってくるものだ。今時のお父さんやお母さん方は、パソコンで塾捜しをする。指導方針や月謝、口コミ等の掲示板など検索に余念はない。

 私は受験で塾生を合格させることが我々の一番の営業だと考える。

 次回は、チラシにまつわる我が塾のお家事情を書いてみたい。 (つづく)

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2008年2月27日 (水)

私が彼の講演に涙するわけ

 春の到来は花粉症の発生で始まる。二日前から鼻水とくしゃみが止まらない。私は30の時から髭をたくわえている。威厳をつけるためではない。実は30歳の時から花粉症が始まり、鼻をかみすぎるゆえに、鼻の下が真っ赤になってしまった。

 そこで髭を生やしてみた。これがGOODなのである。髭が鼻のかみ過ぎから、皮膚を防御してくれる。それから髭歴も20年近くなる。

 私の言わばトレードマークになった髭も、10年ほど前、ふけ顔になりすぎたかなと思い剃ったことがある。塾生達は笑い転げるは、爆笑するはで、「絶対先生じゃない」と言う発言まで飛び出し、以後剃るのはやめた。もうふけ顔でもかまわない。

 かつて某小学校で講演をしたときに、先生は夜回り先生の水谷先生とそっくりの髭をたくわえていますが、失礼ですが真似たのですかと言われた。よくご父兄にも尋ねられるが、上記の理由で髭を生やしたのである。

 今日は記念すべき100回目のブログになる。前置きが長くなってしまったが、今日はその水谷先生の話をしたい。

 水谷先生は今年50歳を迎えられる。私より二つほど上である。大変な病気を抱えながらも、精力的に講演活動をこなしておられる。

 私は彼の講演を生では聴いたことがない。いつもテレビの画面を通してしか拝見しないが、いつ聞いても彼の話には泣いてしまう。失礼な表現かもしれないが、悔し涙である。同じ世代として生きていながら、自分は何をやっているんだろうと言う、悔し涙である。

 テレビに頻繁に登場する教育評論家は、正直言って胡散臭い。言うことだけならば、弁舌軽やかな知識人であれば、誰でも教育論は言える。

 しかし彼は違う。嘘偽りのない人生を送ってきた人だけが持つすごみがある。そしてもう既に、命を捨てる覚悟の出来た修行僧のような雰囲気をお持ちの方だ。

 彼は決して自分の家庭のことについて触れないが、普通のお父さん達が味わう日常の家庭生活などは、一日とてなかったはずだ。

 私が彼の存在のような教育者になれるかと言うと、なれない。何故なれないか。それは、若者の死と対面しなければならない日常に耐えられないからだと思う。

 教室に通って来る生徒で、死にたいなー、という塾生は確かにたまに居る。しかしそれは、私と言葉としてのキャッチングをしたいだけで、実際に死にたいわけではないことは、私にもわかる。

 しかし水谷先生が扱う事例は次元が違う。毎日のように、今手首を切った、明日死のうと思う、などというメールや電話が寄せられて来るのである。そしてそのことに全身全霊で立ち向かわれている。

 彼は、助けられなかった若者の話を講演でされるが、先生が助けた若者の数は、その100倍も1000倍もいるのだ。夜の闇の世界から多くのこども達を昼の世界に導いている。ドラッグ、売春、自殺、大人社会の欲望に翻弄されるこども達の命を何とか救いたい。それが彼の全てではないだろうか。

 長い塾教師生活のなかで、私にも命を救えなっかた若者がいた。塾をやめていった生徒のその後を見守ることはなかなか出来ないのが実情だ。どうしても日々通ってくる塾生の指導が優先である。

 在籍してくれている間に、私は生きることのすばらしさと、生きる意義と、この世に生まれてきた意味をこども達に伝えることが塾教師としての使命だと考えている。失敗もあるかも知れない。しかし100回を迎えたこのブログのように、一歩一歩進んで行きたい。

 水谷先生のエッセイにアクセスできるアドレスを下記に記しておく、是非お読み頂きたい。

          http://www.chunichi.co.jp/article/feature/yomawari/index.html

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2008年2月26日 (火)

続々寺子屋金さん

 22歳で塾業界に足を踏み入れ、25年を迎えた。 今まで個別にかかわってきた子供達はいったい何人ぐらいになるだろう、800人ぐらいだろう、もっとだろうか、わからないが・・・・。

 今更言うまでもないが、人生は山あり谷ありである。 25年間の間には、友人が亡くなったり、親との別れがあったり、最愛なる人との多くの別れがあった、そんな悲しい時期でも、毎年受験があり、教科指導をやらねばならない。

 我々の仕事は毎年の事でも、子供達にとっては、たった1回の大切な受験なのである。

 仕事中に親しい人の亡くなった電話を受け取り、夜、子供達が帰った後、悲しくて、悲しくて、一人泣いた夜もある。

 塾に居るとき、息子の誕生の電話を聞いて、何度も何度も飛び跳ねて、うれしくて、うれしくて一人喜んだこともある。

 寺子屋金さんは、幸せじゃなければいけない。
なぜなら、幸せな人しか人を幸せに出来ないと思うからだ。

 いかにしたら自分のテンションを高められるのか、おいおい50年近くも生きてくると、そのすべはなんとなく体得してきたつもりである。   あくまでもつもりなので、うまくいかない時もある。

 旅行に出かけたり、飲みにでかけたりとかの物理的時間をなかなか取れないのが塾教師である。 寺子屋金さんにとっては、ブルースをがなりたてたり、好きなジャズを聴いたり、卓球をやったり、それが目一杯幸福感を得るための策略である。  

 県立高校の入試まで2週間である。 いつもドラマはハッピーエンドが私は好きだ。

その為には映画やテレビドラマのように、怖い場面だからといって目を閉じ顔を覆っているわけにはいかない。 我々が救わなければ、ハッピーエンドは来ないのだ。

 それが寺子屋の仕事である。今日も寺子屋金さんは幸せである。家族に支えられ、塾生達に支えられ、友人に支えられている。だから頑張れる!

 

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2008年2月25日 (月)

とよ爺さんのコメント

 前回のブログでとよ爺先生のブログを紹介させて頂いたが、先生より早々にコメントを頂いた。私がコメントを書いたところ、ブログ上で多忙なところまたコメントを頂いた。とよ爺先生の私塾に対するスタンスを読者の方々にくみ取って頂ければ幸いです。

TO とよ爺様

初めまして。かねごんこと金田と申します。先生のブログを定期的に拝見させて頂いております。東京の私塾に勤めた後、故郷の街で塾教師を始めて、20年近くが経ちました。新しく塾が出てきては消え、出てきては消える塾業界。私の街でも20年近く続いてきた私塾は3軒あまり、あとは全部東京や大阪、そして仙台に本社を持つ大手塾のフランチャイズのオンパレードになってしまいました。地域のこども達の将来を考えると、画一化されたプログラム教育はいかがなものかと思います。私も講演等で、私なりの教育論を展開しておりますが、子供が育つ土壌である地域の活性化なくして教育の活性化はないと考えます。そういう意味では、寺子屋文化としての個人塾の役割は大きいものだと確信しています。一人の塾長先生なり室長先生が、その子の育ってきたバックボーンを真摯に受けとめ、共有してあげられる塾こそが今後生き残っていく塾だと思います。失礼ですが、先生の日々のブログを拝見して、経営者として、同じにおいを感じました。今後とも先生のご活躍を期待しております。長いコメントになってしまいました。申し訳ありません。

From とよ爺

かねごんさん、コメント有り難うございます。私も全く同じ意見であり、そういう塾屋こそ生き続けて欲しいと思っています。前の記事にも書きましたが、塾は日本独特の文化であり。私たちはその継手でなければならないと思うのです。塾屋は元来真っ正直な人間が集まるところで「看板に偽りなし」で営んできたものと思っています。教育が荒廃して、子供たちがどんどんあらゆるものに意欲を失っているように感じます。単に勉強だけではなく、あらゆるものにそれを感じてしまいます。これは教育の間違い以外の何物でもないと思っています。 ゆえに私は塾屋ですから、本物の塾屋に訴えていこうと思っています。先生のような方の賛同が何よりもうれしく思います。私は未熟で、勉強が足らないものですが、どうかこれからも宜しくお願いいたします。また私の記事に対してご意見がありましたら、よろしくご指導お願いいたします。私は地域に根差して頑張っている塾屋がとにかく大好きです。大手の中にいらしたら、どこも一緒で状況をお察ししてあまりあります。しかしこれからもぶれない教育で、塾屋の気骨を示していってください。私も頑張ります。

 とよ爺先生の一ファンとして、素晴らしいコメントを頂き、光栄である。 先生は塾屋という表現をなされるが、まさに塾教師は職人だと思う。子ども達を合格に導く職人であり、こども達に夢を与える職人だと思う。そして塾屋はある程度がんこ爺でなければならないと思う。世の中に迎合していくことで、教師の理念がぶれると、救えるこども達も救えなくなってしまう。そんな気がする。

追伸

とよ爺先生のコメントを勝手に掲載させて頂きました。私も日々言いたいことを書き連ねております。ご意見ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。 By かねごん

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2008年2月24日 (日)

先輩ブロカー

 今週の週末は春の到来を予感させるような暖かさだった。塾のすぐそばの磐井川の土手を散歩する人々も、足どりが軽く、気持ちよさそうだ。付近の家の庭先には、早くも福寿草の目を見張るような黄色い花が咲き始めている。

 3月が近づくにつれて、自然の営みもだいぶ春めいてきた。川縁にいる数十羽の白鳥達も、もうすぐ北帰行の日が来るのであろう、羽ばたきも盛んである。

 百姓である私は、ぼちぼち稲作の種まきの準備が始まる。春が来ると、百姓は忙しくなる。土作りやら、稲箱の用意やら、受験指導終了と同時に、百姓の新たな一年が始まる。

 今年は、末の子が小学校を卒業する。そして中学校入学。イベントも多い。小学校のPTAを12年連続勤め上げた。本当に勤め上げたという感が強い。

 少人数の学校故、みんな某かの役員、役割を担う。仕事を休んで参かしなければならないPTA行事も何かと多い。私は夜の仕事故PTA会合にはなかなか顔を出せず失礼したが、皆さんに支えられ、どうにか無事(?)小学校のPTAを卒業である。

 12年間長かった。長男が入学した時、教頭先生や校長先生は皆、私の父親や母親の年代であった。そして12年たった今、教頭先生はほぼ私と同い年である。小学校のPTAの思い出話はまたおいおいブログに書きたいと思う。

 ところで全国の塾長先生や、多くの学校の先生方がブログを書いておられるが、にほんブログ村の教育ブログに登録されている方も多い。アクセス数や更新の頻度等の総合で、全国のブログの順位が出てくる。実は先月私も登録させて頂いた。

 先日何気なく、塾予備校部門の順位を確認したところ、学び舎の小林先生のブログと並んで36位になっていた。文才あふれる小林先生のブログと並んだことを誇りに思う。

 私の上にはブログ界の大御所、神奈川県の【とよ爺のつぶやき】先生のブログがきている。ちょくちょく彼のブログを読まさせて頂いているが、更新の回数、文章の量と質もさることながら、塾経営のするどい観察眼と、保護者のニーズに対するプロ意識はさすがだと感じ入る。

 私などは慕情派タイプの軟弱ブロカーなのであるが、彼の塾経営に対する姿勢は見習うことが実に多い。山口県の本田屋の本田先生も頻繁に【とよ爺のつぶやき】のブログを紹介しているが、私も遅まきながら紹介させて頂く。

 神奈川で30年にわたり、塾をやっておられる。年齢も塾教師歴も私より5年先輩である。インド式計算で著名な先生であり、講演活動も忙しい先生だ。先生のブログに登場する町や学校名が懐かしい。実は私の家内も同じ神奈川の出身なのである。岩手に嫁いで22年になる。

 私のブログにアクセスして頂いてる、塾の先生や学校の先生及び保護者の皆さん、ぜひとよ爺先生のブログにアクセスしてみて下さい。

 とよ爺のつぶやき http://toyojie.jugem.jp/

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2008年2月23日 (土)

卒業写真

 近年の卒業写真は、カラフルで豪華である。プロの写真家が撮るので、個人写真も皆素敵な笑顔で写っている。

 塾に、卒業の後何人かの生徒が、卒業アルバムを私に見せにきてくれる。卒業の半年前ぐらいに撮った写真と、受験勉強を経て卒業式を迎えた生徒達の顔は、わずか半年でずいぶん変わるものだと思う。

 少年や少女の顔が、いつの間にか大人の表情に変わっている。そんな激変の日々に毎年立ち会ってきた我々も、やはり確実に年を経ているのだな~と、写真の生徒と目の前の生徒を見て実感する。

 我々の世代は卒業写真というと、白黒の地味なアルバムであったし、何故か荒井由美(松任谷由美)の卒業写真の歌が、流れてくるのである。

 来週は高校の卒業式である。我が塾の高3生の中には、卒業までに進路が決定していない生徒も何人かいる。全体としても、行き先が決まらないまま卒業式を迎える生徒達も多いはずである。いつも毎年思うことなのだが、不安なままの卒業式は気の毒だよな~と思う。

 我々の頃は、進路先の善し悪しは別として、ほぼ進路が確定して後の3月も末の卒業式だったような気がする(定かではないのは、年月の多さに記憶が・・・)。それがだんだん卒業式が早まっていき、最近は3月1日の卒業式が一般的になってしまったが、いかがなものだろうか。

 卒業式、特に高校の卒業式は、ある意味成人式などよりずっと重く、大切な旅立ちの儀式のような気がする。すっきりした気持ちで臨めない生徒達が多いのは、やはりかわいそうな気がする。

 私などは、今でこそ涙腺が弱いしょぼしょぼおじさんになってしまったが、さすがに中高時代は、人前で涙を流したのは1度きりだった。卓球の最後の公式試合で負けたときである。そんな私もさすがに高校の卒業式は、号泣したのを覚えている。

 鬼のごとくこわかった体育教師の担任が、ボロボロ涙を流しているのを見て、一緒に男泣きしてしまった。今思いだしても涙腺の弱くなってしまった私はちょっときてしまう。

 これから東京に旅立つ期待と、悪友達と別れる悲しさ、携帯もパソコンもそして新幹線もない時代の別れは、永遠の別れのような気がしたものだ。

 

 

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2008年2月22日 (金)

精密検査

 正月過ぎから、胃のチクチク感と、圧迫感、そして食道の違和感が続いていた。入試が終わったなら、人間ドッグでもと考えていたが、痛みがおさまらないので、市内の総合病院に行き、二日間にわたり精密検査を受けてきた。 心電図、血液検査、エコー、内視鏡検査などなど。

 検査を受けるに当たり、検査結果の同意書というものを一筆書かせられるのであるが、しばし考え込む項目がさりげなく書いてある。癌の告知を希望しますか YES,NO。余命数ヶ月等の告知を希望しますか YES、NO。

 私は全部のYESに○印をつけ、まな板の上の鯉のごとく、検査に臨んだのであった。

 私の両親ともに癌をやっている。遺伝子的にはかなり確率の高い細胞的資質を持っているはず。病院の検査室に寝かされてしまうと、もう悟りの境地である。

 ほぼ受験指導も山場を越えた。我が息子達も分別のつく年になった、なんとか生きていくだろう。妻は何とか私の生命保険で、当座はしのいでくれるだろうなどなど、自分が助からないことを前提に、次から次へと幻想が膨らんでいくのである。

 人間とはおかしなもので、悲劇的な想像に置いては、本当にバラエティ豊かなストりーを構築していくものだと、自分ながらおかしくなる。

 検査の結果は、こうやってブログを書いていることからも分かるように、大丈夫であった(・・笑い)。病院の先生曰わく、「受験指導からきたストレス性の収縮性胃炎ですね。」 「まああとは、痛風の発作と脂肪肝を気を付けてください、早い話がやせればいいですよハハハ。」

 と言うことで、二日間にわたるドキドキ感と苦痛と、そしてなにがしかの検査料の代償として、なんでもなかったという安心感を頂いて、無事仕事に復帰したのでありました。

 昨日、胃痛のため、病院内を車いすで運んでもらっていた私はなんだったのかと、今だから笑える話である。

追伸

「胃カメラを飲むんですよと」言う私に、講師のみっちゃん先生が、「私も一度経験があるんですよ、先生頑張ってください。」と励ましを頂いた。・・・大変だった・・・・・。

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2008年2月19日 (火)

この世に無駄な努力はない!

 毎年この時期になると思うことだが、勉強する空気感というものにかっこ良さを覚えた生徒は、高校に行って間違いなく伸びて行く。公立だろうが私立だろうが関係ない。

 一方、自分より点数が低い生徒を見て、努力もせず有頂天になっている者は危ない。自分の上にいる者を見るのではなく、下を見て安心している者は将来痛い目を見る。

 90点を取れる能力がありながら、さぼって80点の者と、頑張っても半分しか取れない生徒がむちゃくちゃ頑張って60点を取った場合、世の中(学校の評価)はもちろん80点に軍配を上げる。

 しかし運命の女神は、世間の評価とは違うものを二人の人生に醸し出して来る場合がある。ウサギと亀の寓話を挙げるまででもないが、世の中は実際うまくバランスがとれている。私は多くの実例を見てきたし、それは間違いない。

 「やっても無駄」という言葉は存在しても、実体は存在しない。簡単に言うならば、やって無駄なことは何一つない。全てのやったことに対し、必ず代償はある。生徒諸君!このことは素晴らしい哲学だ。覚えていて欲しい。

 やってもダメだった、という人がいるが、それは自分の立てた目標レベルに達することができなかっただけのことであって、レベルは必ず上がっているはずである。

 この時期、点数を上げられる教科は社会や理科の暗記科目だと、学校の先生やわけしり顔の大人は言うけれど、信じてはいけない。やれば何でも伸びる。ひるんではいけない。この世に無駄な努力など存在しないのだ。

【大験セミナー特別企画のお知らせ】

大験セミナーは今度の3月15日で開校18年を迎えます。そこで今後3月31日までに入会して頂く生徒で「先生のブログを見ました」と言ってもらえれば、入会金を0円に致します。この機会に是非入会してみませんか。授業料などの詳しい内容は、プロフィールをクリックして頂けるとご覧頂けます。

      

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2008年2月18日 (月)

続寺子屋金さん

 かつて塾を営んでいた先輩先生が私に語った。経営者とは孤独な商売だと。故にわざわざゴルフコンペに出かけたり、○○パーティなどに出かけ、経営者同士孤独を慰めあうのだと。

 私も20年このかた、いわば孤独な商売をやってきたが、それほど孤独だと思ったことはない。故につきあいゴルフもやらないし、私塾の会合に出たこともない。

 寺子屋金さんには、お陰様で毎年手のかかる生徒が入ってくる。また金さんに劣らない個性の固まりもいっぱい入ってくる。50近くにもなり、息子以上に年の離れた塾生達ではあるが、充分コミニュケーションはフレンドリーである。

 「見た目は超おじさんだけど、先生若いよ」と褒められる(・・笑い)。20年も毎日ほとんど中高生を相手の日常を考えると、至極当然の結果であると思う。こども達の話題性には十分ついて行けると自負している。はっきり言ってこれが寺子屋金さんの武器である。

 国、社、数、理、英はもちろんのこと(これが本業なので・・・)、音楽からお笑い、そして宇宙論からしもネタまで、なんでもござれである。

 実は寺子屋金さんには、高三の息子がいる。こやつを毎朝山の奥から駅まで、車で送って行くのだが、帰りに必ず立ち寄るコンビニがある。いつも缶コーヒーを買うのだが、そこで10分ほどの立ち読みを敢行する。

 少年ジャンプから、フライデー、婦人雑誌までジャンルは問わず眺め読みをする。だいたいこの毎日の立ち読みで、世の中の情報及び動向を得ていると言っても過言ではない。そしてまた20分程かけて家に戻るのであるが、この20分間が金さんの勝負どこである。

 ジャズやロックを聴きながら、その日一日のイメージングをするのである。その日のブログのテーマから、それぞれの塾生達に接するポイントなど、顔を浮かべながらイメージトレーニングである。

 時として素晴らしいイメージがこんこんと湧くときもあり、全く頭の中をスルーばかりして、ダメな時ももちろんある。そんな日は、こたつに入って、こっくりこっくりと夢をみる寺子屋金さんなのである。

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2008年2月17日 (日)

寺子屋金さん

 私は寺子屋を営んでいるがんこ爺である。大験セミナーなどという、さも現代的なネーミングを付けてしまったが、本当は寺子屋金さんみたいな名前が良かったなどと考えている。

 教室に通ってきている生徒にそんな話をすると、「どこの塾に行っているのと聞かれて、寺子屋金さんなんて答えたら爆笑モンだよ、勘弁してくれよ~」と、しごく当然の答えが返ってくる。したがって寺子屋金さんとは改名はしないが、気分は寺子屋金さんなのである。

 月に1度くらいの割合で、パソコンを使った○○予備校をやりませんかとか、パソコンネットワークを活用した○○教材を使いませんか等の、現代の主流(?)になったパソコンソフトの会社のメールや、営業マンのかたがいらっしゃる。私は丁重にお断りしている。

 寺子屋金さんの金さんが、生徒に直接教えないで、生徒をパソコンの前に座らせたら即寺子屋金さんではなくなってしまうからだ。

 寺子屋金さんは時に人情に厚く、ちょっと短気で、そしてお人好しである。故に家計が苦しくとも月謝をなかなか上げられず、短気故に「てめ~らうるせんだよ、今日は指導無しだかえれ~!」と、塾生に有無を言わせず帰したり、我ながら寺子屋金さんは困った人である。

 寺子屋金さんに通って来るこども達は、皆ナイスである。どうナイスかというと、まず明るい、そして元気である。これはプチ自慢であるが、きっと金さんの破天荒さが伝染しているのだと思う。しかし夜も10時近く、塾を辞するこども達はうるさい。隣近所では、もう寝ている方々もいる。「静かにしろ!」と言ってもうるさい。

昔は、近隣の方々に謝ってばかりいた。最近は「こども達のにぎやかな声を聞かないとなんか寂しくて」 なんて言ってくださる方もいる。それでまあ~いいかと、ほっといているが、苦情もないのでちょっと安心である。

 寺子屋金さんは突然教室でギターを取り出し、ブルースなんぞをがなりたてる。たまに近隣の小学校まで出前ライブに出かける始末で、「よしなよ~」などと誰も止めないものだから調子に乗っている。調子に乗って本田屋の本田先生みたいにCDを出そうかななどと考えているのだが、録音機材は数年前の地震で崩壊したまんま、ボーカルマイクは誰かがオモチャにして持っていってしまった。残念!

 寺子屋金さんには、多くの塾生及び卒業生が知っていることなのだが、プレアデス星人という別名がある。つまり今はやりの宇宙人なのである。なんでも今から10万年前、プレアデス星から地球に転生してきた、新生ホモサピエンス型宇宙人なのだそうだ。

 生徒は問題を解きながら、迷惑そうに上目使いでその宇宙人の話を聞いている。「先生もっと大人になろうよ」 などと説教をしてくる。いやはや宇宙人ともあろうものが、地球人の中高生に説教を頂くようでは、政府との正式コンタクトもまだまだ先だろうなと、勝手に宇宙人の代表になってしまう寺子屋金さんなのであった。  (つづく)

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2008年2月16日 (土)

だいじょうぶ

289756103 小さい頃遊んだ公園の砂場のように

春まぢかの夕暮れ時は

ちょっぴり悲しくなるものさ

でもだいじょうぶ

おいしいものを食べてぐっすり眠れば元気になるさ

そうしたらまた空を眺めればいい

昨日とは違う希望が湧いてくるはず

疲れたら 疲れた自分をいたわればいい

悲しかったら 悲しい自分をいたわればいい

疲れただろう ごめんねって

悲しかっただろう ごめんねって

晴れの日ばかりは続かないけれど

雨の日ばかりも続かない

だからだいじょうぶ

見上げる大空も 大地を吹き渡る風も

全部君のもの 何の代償もいらない

羽ばたきは 君の意志

・・・・There  is  a  will,  there  is  a  way !

By  かねごん

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2008年2月15日 (金)

青春という道

誰もが不安を抱え 誰もがせつなさを背負い道を歩いている

好きな人を思い 自分の夢を思い  そして未来をさがしている

嬉しさと悲しみが交錯し 道の轍には多くの思い出達が埋もれて行く

今だけの自分を愛すれば 過去は忘却の彼方に葬られ

未来だけの夢にすがりつけば 空虚な時間が流れ込んでくる

いま描いているピースが いったい全体のどの部分なのか

分からないまま 多くの若者がキャンパスに向かっている

絵がき終わったとき 完成した風景の中には

どんな風が吹いているのだろう

どんな雲が流れているのだろう

季節は春だろうか 夏だろうか

全てのキャンパスが 陽光が降り注ぐ暖かい風景ばかりじゃない

完成することなく 捨てられていく絵も多いことだろう

青春という道は ひょっとしたら 楽じゃないかも知れない

でも誰にでも 間違いなく道は広がっている

ぬかるんだ道や 砂利道もあるだろう

そよ風が吹きそそぐ なだらかな下り坂もあるはずだ

君たちが進もうとしている道は せつなくて不安だらけかも知れない

でも一人じゃない 家族や君を愛する多くの人達が

いつもいつも見守ってくれていることを忘れないで欲しい

By かねごん

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2008年2月14日 (木)

あこがれのギブソンギター

 中学1年の時に買ったヤマハのギターが、生まれて初めて手にしたギターだった。それから7本ほどギターを買っただろうか。今残っているのは、大学2年の時に買ったK・yairiのギターと、7年前に買ったギブソンの2本である。

 K・yairi のギターは30年近く使ってきたが、ネックの反りもおこらず、ボディも長年の風雪に耐え、いぶし銀の風格さえ漂わせている。このギターで作った曲は100曲を越えていると思う。しかし、今現在歌えるのは30曲にもみたない。

 と言うのも、私は今までに5回ほど大きな引越をしている。そのたびに詩を書きとめたノートを紛失したり、ギターケースに入れていた譜面が消えたりで、70曲ほどが紛失してしまった。

 青春時代、ヤマハのポップコンやいろんなオーディションに、曲を作ってはデモテープを送っていた。その時に録音した曲がテープに残っているのと、40歳を過ぎてから、こども達のために書き下ろした10曲ほどの曲を歌えるくらいである。

 実はもう一本のギブソンであるが、まさしくギブソン故高かった。中学校の頃、仙台の街に行くと、必ず楽器店に立ち寄った。鍵の掛かったショウウインドウには、マーチンやギブソンが飾られていた。

 当時今のような変動為替相場ではなく、1ドル360円だった。一番安いギブソンでも50万円はしていたと思う。マーチンなど100万円ぐらいしていた。いつもその前でため息とよだれ(・・・笑い)を流して見つめていた。いつかこれを買える大人になってやる・・・・。子ども心に誓ったものだ。

 そして7年前事件が起こった。当時の塾生が、私の弾き語りライブを一関でやろうという計画を立てた。塾生のお父さんに、かつて円谷プロで映画の助監督をしていた方がおられ、音響やら照明やらを担当して頂き、本格的なライブとあいなった。

 予想に反し、有料にもかかわらず満員御礼のライブになった。私のブログにたびたび登場頂いている学び舎の小林先生や、前回のブログに登場した友人の山ちゃんらも多忙なところ駆けつけて頂いた。全曲オリジナルのライブで、それもギター一本。今思うと冷や汗もののドキドキものである。ほんとうにあんな素晴らしい機会を私に与えてくれた塾生達に感謝である。

 そのライブの後、衝撃の事実が発覚する。なんとK・yairi のネックに亀裂が入っているではないか。即楽器店に送り修理となったが、10日待てども1ヶ月待てども修理工場からギターが戻って来ない。

 音楽魂に火がついてしまった私は、休みの日仙台の楽器店に向かった。全くの衝動で、長年の夢であったギブソンのギターを買ってしまったのだ。

 その年、我が妻とこども達は、実家に里帰りをすることが出来なかった。旅行にも出かけなかった。そう・・・原因はギブソンである。

 我が家内は、私のギブソンを見るたびに、きっとず~と思い出すんだろうなと・・・思う。

追伸

K・yairi のギターは、完璧な修理を施され、ギブソンを買った数日後に戻ってきた。大験セミナーの教室に鎮座し、今も私のストレス発散に付き合ってもらっている。ありがたい。

2008年2月13日 (水)

その他の大学の方

 『入試前夜』のブログを書いた後、大学時代の就職活動のことを思い出した。学生時代からの私の友人で山ちゃんがいる。音楽仲間であり、飲み友達であり、ぶっちゃけ悪友である。彼は現在某学校のまじめな先生をしている。したがって差し障りがあるので、過去の悪行はふれないでおこう(・・笑い)。

 その彼と会社訪問をした時の話である。当時会社訪問には解禁日というのがあり、それは4年時の10月だった。卒論やら就職活動やら、多忙な日々がいっきに押し寄せてくる。

 我々が訪れたのは、音楽事業で有名なY社の本社だった。当時売り出し中の看板シンガー、長渕剛さんとロビーですれ違い、お互いに会釈を交わしたのを覚えている。

 会社説明会会場の入り口に机が置いてあり、訪問者名を書く用紙が5枚設置してあった。1枚目には東京大学の方、2枚目には一橋大学の方、3枚目には慶応大学の方、4枚目には上智大学の方、そして5枚目にはその他の大学の方と記されてあった。

 おわかり頂いたと思うが、つまり東大、一橋、慶応、上智以外の学生は採りませんよという、学閥宣言なのである。現在一流企業がこれをやったらバッシングの嵐だろうけれど、当時は学歴重視、学閥採用が当たり前の時代だった。

 山ちゃんも私も大学は違っていたが、それぞれその他の大学の方であった。「音楽をクリエートするのに大学名は関係ネーだろう」と二人捨てぜりふを残し、即刻Y社を後にしたのは言うまでもない。

 我々はY社の駐車場で、私や山ちゃんがギターを始めるきっかけを作ってくれたビックアーチストに遭遇した。我が郷土が誇るスーパースターN・S・Pである。さりげなく彼らはキャッチボールにこうじていた。先ほどの屈辱感もいっきに忘れ去り、思いっきり手など振り、はしゃいでいた山ちゃんと私であった。

 Y社はその後レコード産業に置いて衰退の道をたどることになる。後続の音楽事務所にニーズを奪われていくのであるが、当たり前と言えば当たり前の結果だったような気がする。

 現在では一部の企業に置いて、試験用紙や面接カードに大学名をあえて記入させずに、社員を選択する会社も増えていると聞く。今思うに、それでもやっぱり私や山ちゃんは受からなかったかも・・・・・。

追伸

NSPの天野 滋さんが3年前残念ながらこの世を去りました。彼は『夕暮れ時はさびしそう』『さようなら』等の素晴らしい名曲を世に送り出しました。当時、井上陽水、吉田拓郎らに並び称されるメロディーメーカーでした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2008年2月11日 (月)

君は親を選んで生まれて来ている

 どのように子どもが生きたいのか、その道筋を照らしてあげることが親の役目だと思う。それほどお金をかける必要はない。一冊の本がすごい勇気を与えたり、仕事に対する親御さんの姿勢が子どもの生きる励みになったり、親の笑顔だったり、そして親の存在そのものだったり。

 私は何ら特別な宗教や神を信奉する人間ではない。しかし教育に携わる人間として、一つの信念を持っている。

 『子どもは親を選んで生まれてくる』 私はこの仮定のもとに、いつも親子関係を見ているし、塾生の親に対するトラブルにあたってきた。

 例えばこんなふうに 「君はこんな親の元に生まれて来なければ良かったと言うけれど、もし君が親を選んで生まれて来たとしたならどうする。」 「君がこの地球という星に生まれて来る理由があって、その目的を達するために今の両親を選んで生まれて来たとしたら・・・」

 心の深いどこかで共鳴が走る。泣き崩れる中高生もいる。そんなの欺瞞(ぎまん)だと言って私に怒り出すものもいる。

 子どもは親を選べない。だから親は子どものために頑張らなければ、という話も多く耳にする。でもこれを、子どもは親を選んで生まれて来ている。だから、親はその選択に応えなければならない、と考えるのとではどちらが生きていく勇気を与えてくれるだろうか。私は後者の気がする。

 人間に生まれ変わりがあるかどうか、私は分からない。

 仮に今回の人生がたった一回の一発勝負なら、なおさら精一杯生きて、生き抜いてみたいとは思わないだろうか。

 仮に生まれ変わりの人生があるとしても、今回この時代に、この名前で、この顔で、この親の元に生まれてこれるのは、やっぱりたった一度きり。やっぱり精一杯生きて、生き抜いてみたいとは思わないだろうか。

 頑張ろう・・・・もうすぐ春が来る。

2008年2月10日 (日)

入試前夜

 高三生は大学受験の真っ最中。当セミナーの塾生も、東京にて受験中である。

 近頃では、東京に長期滞在して、複数の大学を受ける受験生が普通になってきた。親戚の家に寄らせてもらったり、格安のホテルに泊まったり、それぞれ費用をあまりかけないように工夫している。

 中三生や高三生が、入試の前の日の過ごし方について聞いてくる。「いつも通りでいいよ、早く寝ようとしたところで寝られないしね」 と、まあ妥当なアドバイスをするのだが、不安はおさまらないようだ。そこで私の体験談となる。

 私達の世代は皆そうだと思うのだが、貧しかった。したがって、東京に入試の前日に行き、下見をして受験などという余裕はなかった。新幹線などもちろん開通していない昔のこと、夜行列車で早朝上野に着き、そのまま大学の試験会場へなんていう強行軍が普通だった。

 受験生だった私も、仙台より南は全く未知の世界だったので、東京の私大を受けるときは、案内役の父との二人旅となった。

 当時一関駅を夜11時20分に出て、上野駅に6時頃に着く八甲田という夜行列車があった。私と父も、その夜行列車に乗り東京に向かった。

 私の父は、息子との二人旅が楽しかったようで、さっそくワンカップとつまみを取り出し飲み始めた。私はといえば、翌日の試験が気になり落ち着かない。仕方なく酒を飲み始めた父を尻目に、参考書などを取り出し流し読みなどしていた。

 そんなおり、日頃気にとめないページに目が留まった。国際連合の組織機関の英語名称一覧表だった。WHOのOはOrganizationなんだとか、IMFのMFはMonetary Fundか、などと列車に揺られながらながめていた。

 生まれて初めて乗る夜行列車、さすがに眠れるもんじゃない。うとうとしながら朝を迎え、私はぼ~とした頭の状態で、初めて見る東京の街に圧倒されながら大学の試験会場に向かった。

 英語の問題を開いた時の驚きは、今でも鮮明に覚えている。なんと国際連合の組織名を英語で書く設問が出ているではないか。もちろん奇跡的に書けたのは言うまでもない。

 私はその大学に入学し、その大学の隣町に住んでいた今の家内と知り合い、こうやって結婚生活も無事(?)22年目に入ろうとしている。

 入試前夜、本来ならば体調を整え、じっくり休むのが一番良いのだろう。例外中の例外だろうけれど私のような例もある。人それぞれの人生模様を織りなす入試前夜、塾生にもさらなる奇跡が起こることを願わずにはいられない。

2008年2月 8日 (金)

携帯電話

 保護者の皆さんとお話をするときに、私が一番取り上げるテーマである。講演等でも熱弁をふるってきたし、受験生のお子さんをお持ちの親御さんにも、再三再四力説してきたことであるが、小学生や、中学生に携帯電話はいらない。

 百害あって一利無しである。

 貴重な大切な時間のほとんどをメール打ちに費やし、どうでも良いようなメールを受け取り、またメールを返している。そしてそれに飽きると今度はゲームである。そしてほって置くと、ずーとやっている。

 メールのやり取りを友情などと言って、訳の分からない幻想に陥っている。したがって本を読まない、読めない。文章もメールのような単文しか書けない。起承転結の展開などそんなの関係ない。

 携帯の一番の功罪は、こども達から忍耐力と想像力を奪ってしまったことだ。

 例を挙げよう、人のうわさ話などを聞いたものならすぐに携帯で確かめようとする。相手の心情や、心の苦悩など二の次三の次。想像力の欠如も甚だしい。知りたいことはすぐ知りたい。したがって忍耐力など育つはずもない。

携帯電話は進化を続けても、それを使いこなす人間の精神性が追いついていない。

 許可もなく店の中や公共の場で写メイを取る老若男女。電車の中で、携帯を握りしめ大きな声で話をしているサラリーマンや学生達・・・・。

 私は携帯を持っていない。そのことで不便を感じたことはない。自宅と職場である塾には、もちろん電話はある。メールは、帰宅後と昼時にパソコンで確認する。仕事上もプライベイトでも何ら問題はない。

 あいつは携帯を持たない人だとなると、まわりもそういう扱いをしてくれる。紛らわしい用事も頼まれない。自分のやりたいことに集中が出来る。

 本当に携帯が必要かどうかもう一度じっくり考えてみてはいかがだろうか。

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2008年2月 7日 (木)

我々は導火線

 大学を出て初めて勤めた塾の同僚と20年ぶりに逢い、酒を酌み交わした。札幌から仕事で宮古に来たのだが、遠路はるばる私と逢うために一関まで足を運んでくれた。

 20年という歳月が全く感じられない再会だった。彼は現在、コンサルティング会社の代表取締役をやっている。1年365日のうち、100日はコンサルティングの仕事で飛行機を使うとのこと、全く凄まじい。

 私は20年近く、毎日自宅と塾の往復だ。塾教師には出張などない。卓球の試合で年に3,4回近隣の町に出掛けるくらいのものである。

 彼の話すいろんな町の話題や、会社の話はとても興味深く勉強になった。

 我々の年代になると、仕事の量もさることながら、仕事のクオリティーもそれなりに高いものを要求される。生き抜いて行くためには、生半可な知識ではたちうち出来ない。

 英語のことわざに A  little  knowlege   is  dangerous  thing. という箴言がある。生半可な知識でもって物事に首を突っ込むと大変なことになるよという意味だが、日々変化している世の中で、長期的展望を見失いトレンドばかりを追い続け、世の中に迎合していると大変なことになるなと、彼の話を聞いていて感じた。

 居酒屋のカウンターで、塾のニーズとは何だろうかと、実は真剣に考えてみた。志望校に合格させること。確かに最終的にはそこだが、それだけで良いのだろうかと自問してみた。塾の必要性とは何だろう。

 私達の仕事は、こども達が持っている本来の才能を引き出す、導火線の火付け役じゃないだろうかと思っている。激しすぎると爆発するし、ほっとくと湿気ってしまい発火しない。全ての仕事がそうだろうけれど、繊細な気配りが一番大切だと実感する。

 翌日、中尊寺や毛越寺を案内し、おいしいそばを食べ彼とは別れた。お互い年を取る楽しみをようやく覚えてきたのかな~と、そんなことをふと感じる出逢いだった。

2008年2月 5日 (火)

県立高校入試まであと1ヶ月

 昨年の暖かい冬とうって変わって、今年は北国らしい厳しい寒さが続いている。受験生諸君は体調の管理が大変だと思うが、うがいや手洗いなど、風邪対策は入念にして欲しい。

 陳腐な表現で申し訳ないが、泣いても笑っても後1ヶ月で県立高校の入試がやって来る。我が塾の中3生は過去問演習の実践に突入しているが、日々喜怒哀楽の上下動の連続だ。

 高得点を取ると「ァ~この年の受験生だったら良かったのに~」と、うれしいやら残念やらの微妙な感想を述べる。また点数が陥没すると「へたこいた~でもそんなの関係ね~、この年の受験生でなくて良かったー」と、かなりポジティブな塾生もいたりする。

 ところで、入試問題がどこで印刷されているのかご存知だろうか。学校の先生や、塾の先生方はもちろん周知の事実であるが、生徒や親御さんは意外と知らない。実は刑務所で印刷され、出番が来るまで管理されている。

 つまり受刑者の方々によって入試問題が印刷作成されているのだ。だからどうだと言うわけではないが、我が教室に、過去のブログでもふれたが、最高裁判所で使われていた机と椅子がある。そして椅子は毎日塾生が使っている。ちょっと複雑な気持ちがしないでもない。

 親御さんが、自分の息子や娘達に自分の受験勉強の話をするときに、どんな感じで話をされているのだろうかと、常々気になっている。気になっているのなら直接聞けばいいと思われるかも知れないが、ついついタイミングを逃してしまう。

 ちなみに私は、息子達に話せない。と言うか、中学校時代は私にとって、勉強空白時代だった。このブログは、決して我が息子達は見ないので正直申し上げるが、青春のエネルギーを勉強以外の違うところにとことん使ってしまっていた(・・笑い)。

 確かに今でも後悔はある。しかしそれはそれで自分の学びだったのかと思っている。おかげで(なにがおかげか分からないが)、高校も大学も公とつくところにはとんと縁がなく、こうやってちょっと(?)やくざな塾教師をやっている。

 塾生に「おまえな勉強しないと俺みたいなちょい悪オヤジになってしまうぞ」と脅かすと、「そりゃたいへんだー勉強しないとはげちゃう~」などと暴言を吐き、私が「ぶっ殺してやる~」などと、まるで吉本の漫才のような会話が教室でくりひろげられる。

 受験1ヶ月前、これくらいのジョークのジャブが出来るところを見ると、我が塾生達もだいじょうぶだろうと思うこの頃である。

2008年2月 4日 (月)

放射能を海に捨てないで

 来月から、青森県六ヶ所村のウラン再処理工場が本格始動する。全国の主要道路を、高レベル放射性核廃棄物が運ばれる。

 全国の人達は、自分の所じゃないので・・・と思うかも知れない。しかし、確実に、我々が享受してきた文明の代償が、私達の日々の中に忍び寄ってきている。

 六ヶ所村の一番の問題点は、間違いなく海に廃棄される放射性廃棄物だ。東北の美しい海が放射線に汚染され、死の海と化す。

 現在世界でウランの再処理施設を稼働させているのは、イギリスとフランスだけである。そしてイギリスの再処理場があるセラフィールドの町の周辺では、小児白血病の発症率が通常の10倍になっており、セラフィールドの町が面するアイリッシュ海は、世界で最も放射能汚染が進んだ海となってしまった。

 国際研究機関オスパー委員会の調査によると、沿岸の海水の放射性物質の濃度が、通常の70倍に達したと報告された。魚など食べられたものではない。

 誰でも知っていることだが、海は常に海流によって移動する。六ヶ所村から海に放出された汚染物質は、親潮である千島海流や黒潮である日本海流によってリンクされていく。その海で生息する魚介類は、もちろん被爆する。それでも、よそのことなのでと、言っていられるだろうか。

 このブログで何度も繰り返し述べてきたことだが、都会と地方の経済格差が広がった。経済力のない地方の活性化に、原子力の厄介者を押しつけて、まるで恵みでも与えてやったようなつもりでいる国の政府の対応に、私は激怒する。

 操業者である日本原燃(株)の事前調査では、排出されるトリチウムなどの放射性廃液は、青森県沿岸を南下し、八戸沖あたりで消えてなくなるとされているが、放射性物質は温廃水の水温のように数キロ先で、時間の経過とともにもとに戻るものではないし、消えてなくなるものではない。

 日本原燃ははっきりと、放射性廃液を海に捨てると言っている。決してこの事態を容認するべきではない。この素晴らしい日本の海と、育っていくこども達、そして生まれて来るこども達のためにも。

 この問題に危機感を覚え、活動をしているたくさんの人達がいる。塾の卒業生の中にも支援者が多くいる。しかし、まだまだ声がトップに届いていないのが現状である。東大の先生が、日本原燃を支持する意見書を国に提出するなどの暴挙もあり、いろんな利権が渦巻いている。

 前回のブログ、暗黙の共鳴でも書いたが、真実の声に耳を傾けられる感性と力が私達には必要だ。(つづく)

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2008年2月 3日 (日)

音楽讃歌

 音楽は実にいい。教室の自習室で塾生達がやって来るまでのひととき、指導の下準備を終えた私は、いつもジャズをバックにこのブログの下書き原稿を書いている。

 ある時はマイルスだったり、またある時はコルトレーンであったり、その日の天候や気分によって曲はさまざまである。ちなみに先日はアートファーマーのトランペットを聞いていて、若い頃村上春樹の文体をまねて日記をしたためていたことを思いだし、前回のブログに書きとめた。音楽とは不思議なもので、脈絡もなくいろんなことを思い出させてくれる。

 時として、私がいつものごとく自習室でジャズを聴きコーヒーなどを飲んでいると、塾生が思いのほか早い時間にやって来たりする。「喫茶店みたいな音楽がかかっている」などと生徒が言って入ってくる。「先生いつもこんな音楽ばかり聞いているよね」などとも言う。

 実は学生の頃、ジャズ喫茶のおやじに憧れた。日がな一日、自分の好きなジャズを聴きながらコーヒーを入れているその姿に、限りない憧憬の念を抱いた。

 吉祥寺のSOMETIMEや町田のNOISEはよく通ったジャズ喫茶だ。都会の華やいだ空気感が素敵なジャズ喫茶ではあるが、自分のめざす喫茶店ではなかった。裏通りの煉瓦作りのお店なんぞで、髭を生やし哲学的な風貌で、客に迎合しない頑固さで自分の聴かせたい曲をかけ続けている、そんなジャズ喫茶が私の夢だった。

 現在、髭の風貌と頑固さだけは何とか叶えてはいるが、ジャズ好きの塾教師をやっている。故に、コーヒー店やジャズ喫茶をやっている方を見ると、ほんとうに羨ましい。

 私の20年来の知人に、一関でコーヒー豆店を営んでいるご夫婦がいる。一関一高のすぐ近くで【佐惣コーヒー豆店】というお店をやっておられるのだが、むかしの板蔵を改装した古風で、モダンな素敵なお店である。私が行くと、奥様がお店のきりもりをされていて、ご主人の佐藤さんは、店の奥でジャズを聴きながらコーヒー豆の焙煎をされている。

 ジャズを聴きながら焙煎されるコーヒー豆の味もまた格別まろやかで、ジャージーである。我が家の朝は、彼の店のコーヒー豆をミルする音で始まる。またこれもジャージーである。

 店主の佐藤さんと奥様の趣味の良さが、素敵な空間をかもし出しているお店である。お店に入った瞬間のコーヒーの香りが、疲れさえも癒してくれる。

 コーヒー好きの方にはぜひオススメのお店です。ご賞味あれ。

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~yukon/omise.htm  【佐惣コーヒー豆店】を紹介しているホームページです。

2008年2月 1日 (金)

暗黙の共鳴

 本をたくさん読まれている方は、お話をしていると不思議とわかるものだ。同業者の先生しかり、塾に立ち寄ってくれる営業マンの方しかりだ。

 10分とはかからない。5分も話していると、その人の根底に潜んでいる知識なり感性がにじみ出てくるのがわかる。そんな時は自分も刺激され、思わず時の過ぎるのも忘れ話し込んでしまう。

 かつて、息子の二者面談の時もそうだった。担任の先生と話に花が咲き、1時間半以上も教室で話し込んでしまった。もちろん、私がその日のラストの保護者であったのは言うまでもないけれど。

 超がつくほど問題児の生徒が、年に一人二人入塾してくる。超がつくほどなので、しでかす騒動も並大抵ではない。仕方なく親御さんをお呼びし、お話を伺う。

 予想通り、りっぱなお話をされる。自分がこの子のためにどれだけ努力してきたか。学校の先生からどれだけ自分の息子が理解されていないか等。私は心静かに耳を傾けてみる。心が共鳴しないのだ。ただそれだけの事なのだけれど、相手に真実だと思われない話ほど空虚なものはない。

 全ての責任を常に他者に押しつけてきたことで、支払わなければならない代償は限りなく大きい。

 さて本に話を戻す。本を読むパターンもいろいろある。私は非常に凝り性な性格で、一人の作家をとことん追い続けるタイプだ。20代の前半の一時期、村上春樹に傾倒した。当時書いていた日記までもが、彼特有のメタファーをまねた文体になっている。例えばこんなふうだ、『今夜は久しぶりに、学生時代のアパートの道を通ってみた。駐車場になってしまった僕のかつてのアパートの空間は、まるで幻灯機に映し出された本編直前のスクリーンのひだのように、僕の心を切なくさせた。』・・・思わず笑ってしまう。

 したがって、宮沢賢治の『永訣の朝』に陶酔した頃の、高校生だった私は、絶望感の中で常に何か光りを見いだそうとする、そんな場面設定の詩を多くしたためていた。(死んでもブログでは発表出来ない・・・笑い)

 じゃ最近はと言うと、このブログのプロフィールにも書いているが、スピリチュアルな本が多い。2年前は急に龍神が気になりだし、龍神関係の本を読みあさっていた。龍神を祭る神社仏閣のいわれや伝説はもちろんのこと、龍神宇宙人説などというあやしげな本まで、図書館やインターネットで見つけては日々読んでいた。

 それでどうなったわけではないが、おもしろい情報もずいぶんと得ることが出来た。いつかこのブログで私の龍神論を書く機会があれば公開したいのだが、宮沢賢治論同様どんどん長くなって行きそうでこわい。

 ということで、このブログも凝り性な私の性格故、シリーズものが増えそうであるが、今後ともおつき合い願いたい。

追伸

学び舎の小林先生のブログに引き続き、昨日、日本語教師奥村先生、みかみ塾の本田先生のブログをリンクさせて頂きました。3人の先生方のブログはとても個性的であり、音楽や文学そして教育の話題など日々素晴らしい話題を提供して下さっています。ぜひアクセスしてみて下さい。下記に3人の先生方の紹介をさせて頂きます。

【小林先生】・・・学び舎塾長。25年にわたり塾教育に尽力されてきました。古典文学の伝道師的存在。高校生の英語、現代文、古文の指導に置いては非凡な才能をお持ちです。また剣道の達人であり、そしてジャズの造詣も深く、マルチな才能を有する博識な先生です。

【本田先生)・・・山口県みかみ塾のスパースターです。彼の作り出す詩の世界は、まるで吟遊詩人そのもの。受験生応援ソングを全国に発信中。本田先生のブログには、月数万を越えるアクセスも。いつ眠っているのかと、不思議なくらい多忙な先生です。

【奥村先生】・・・カリスマ的日本語教師。富山国際学院にて、国際的視野と教養に培われた先生の日本語授業は人気をはくす。還暦を迎えても尚まだ勉学の志衰えず、近年富山大学にて言語学を学ぶ。実は我妻の叔父でもある。とってもダンディーな先生です。

 

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