最近のトラックバック

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

2008年1月31日 (木)

君がマックレイガーだったら

 街の中やふとした場所で、「先生」と呼ばれると、一瞬佇んでしまう。いや正直言うと緊張が走る。自分の様子を客観的に確かめたり、背筋を思いのほか真っ直ぐにしてみたり、おかしな話だが、25年以上も先生と呼ばれる仕事をしてきているのに、塾の外で呼ばれる「先生」という名称には今だに慣れていない。

 もちろん私の同級生や友人は、たとえ自分の息子、娘を我が塾に入れていても、私を先生などと決して呼ばない。中学、高校時代のあだ名のまま、カネゴンと呼ぶ同級生もいれば、かねやん、キンちゃんと呼ぶものなど、付き合ってきた時代時代の愛称で呼んで頂いている。

 私も塾内では、結構生徒をニックネームで呼ぶことが多い。そして塾内での愛称が、そのまま中学校や高校での愛称になってしまっている生徒がいる。

 いやな顔をしないところを見ると、まんざら迷惑でもなさそうなので、そのまま呼び続けている。もしこのブログを読んでいる塾生で、自分のニックネームがいやだというものがおれば、遠慮なく申し出て欲しい。即変更する。違うものに(・・・笑い)。

 辻 仁成(つじ ひとなり)のエッセイだったような気がするが、彼が中学時代通っていた英語塾の先生は、塾生全員をアメリカ人的ニックネームを付けて呼んでいたらしい。たとえば「ジェシーそれ答えて」とか「マックレイガー訳してみなさい」てな感じだったのだろう。

 私もやってみようかなどと、塾生にその話をしたら、即断られた。塾を辞めるとまで言われた。確かに、学校でマックレイガーなどと呼ばれたら、たまったもんじゃない・・・・(・・笑い)。

 また「先生」の話に戻る。まったくプライベートの場所で、例えばPTA行事などで、教職に就いている父兄を○○先生と呼ぶ方がおられるが、違和感を感じるのは私だけだろうか。その方にとっては先生でも何でもないのだから、○○さんと呼ぶべきなのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 最近若い学校の先生方の中には、プライベートで同僚と飲みに行くときなど、お互い先生と呼ぶのはよしましょう、という先生が多いと聞く。私もその方がいいと思う。

2008年1月30日 (水)

宮沢賢治~森の思想

 賢治の作品には多くの森が登場する。しかしそれらの森は、人を拒絶するような峻厳な森ではない。山の神が住み、妖精が戯れる鎮守の森や、豊かな実りをもたらす縄文的な、人間と共生する森である。

 私はよく森を訪れる。時に、遠く離れた早池峰の森であったり、歩いて10分ほどの裏山だったりする。森を歩くたびに、賢治が感じたであろう風の不思議さや、動物たちのざわめきを感じることができる、いやそんな気がする。

 賢治の童話は、作品の陰影が舞台背景にはっきり表れる。『風の又三郎』に登場する森や山の風景は、なぜかいつも悲しげだ。人間のさまざまな葛藤が、どっとどっとと作品の風のように、森の中を吹いている。

 一方、『どんぐりと山猫』に描かれる賢治の森は、実は私はこの森が一番好きなのだが、自然のふところに抱かれたような風を感じる。森の奧に入り込んで居ても、常に何かに守られている安心感、人間を疎外しない、森のおおらかさを感じる作品だ。

 賢治の作品の中で一番教科書に取り上げられているのが、『注文の多い料理店』である。日本の小学生が一番知っているであろう賢治の代表作だ。

 私はこの作品に、西洋的な森のイメージを持ってしまう。またこの作品の挿し絵には、必ずと言っていいほど西洋的な森の絵が描かれる。反キリスト教的な呪詛が、森全体を覆いつくしている感じだ。森に彷徨うハンターの姿は、日本が西洋化していくことへの賢治の警鐘のような気がする。

 賢治のこよなく愛した岩手の山を、若い頃、私はよく塾生を連れて歩いたものだ。多くの登山家の足ですり減った岩の足場を見て、ここをきっと賢治も歩いたんだろうなと、そっと自分の足を置き、感慨に浸ったものだ。

 そう言えばここ数年、忙しさに追われ賢治の森を歩いていない。岩手の山に春が来たならば、また歩いてみたい。彼を感じながら。

   

 

 

2008年1月29日 (火)

一関一高附属中学校併設への私見パート3

 個人個人の心身の発育は、本当に千差万別である。学習面でももちろんそうである。そしてそこに家庭環境がさらに複雑に絡んでくる。

 例えば離婚の問題がある。私の長男のクラスは、小学校の時3割が片親の家庭だった。PTA活動等でいろいろ考えさせられることも多かった。

 英才教育と言う言葉がある。今回の一関一高附属中学校の設立に対して、何人かの小学校の校長先生からプライベートにお話を伺う機会を得た。その中で印象に残った話がある。

 給食費を払わない家庭が増えていて、故意に払わないのはけしからんと言う世の中の論調があるが、実際は本当に大変なご家庭が増えている。塾の先生を前にしてこんな話も失礼かと思うが、附属中学校が開校し、入試制度が始まれば、今以上に小学生の塾通いは加熱するだろう。本来の子どもの能力の選別ではなく、経済力や、家庭環境による選別になりはしないだろうか。というお話を拝聴した。

 附属中学校に入学するために、英才教育が必要かどうかは別として、2年3年と入試が続いていけば、塾は問題を分析し、より良い指導プログラムを構築してくる。きっと私もそうするだろう。独学での入試勉強は、小学生だけに難しい。したがって経済格差が、そのまま教育格差になってしまうおそれがある。

 このシリーズの前回でのブログの繰り返しになるが、教育のチャンスは平等に与えられるべきである。

 中学生ならば、たとえ家庭環境が劣悪でも、乗り越えられる精神力を、クラブ活動や、人間関係で培うことが出来、大いなる展望を持ち、一高入学を希望し、躍進していける。中学生ならば、塾に行く経済力が家庭になくとも、充分独学で勝負できる。その一高の門戸が、3年後からわずか160人に限られてくる。

 高校入試も今以上に加熱することは、火を見るより明らかだ。

 私がなぜこれ程までに経済の話にこだわるのか・・・・。私の塾では、週1回の個別指導で、5000円という月謝設定をしている。この料金でも、経済的理由で月謝が払えず、退塾していく家庭がある。

結果公立高校を失敗し、私立高校に入るのだが、そのお金が続かず中退という悪循環の結果が生じている。

 この仕事をやってきて、忘れられない言葉がある。私大は受かったものの、国立に合格できず、家庭の経済事情で就職を決意した塾生がいた。彼女は私にこう言った、「結局貧乏人は働けということなんですね」。

 彼女の涙ぐんだ言葉が、今も私の心にひっかかり続けている。

 

にほんブログ村 教育ブログへ

2008年1月28日 (月)

倒れるまで

 若い頃の私は、生徒達にいばらの道を選べと言った。体力のあるうちに難所を乗り越えていけば、年を取ってから楽だからと。

 でも今は違う。楽しい道を選べと言う。そうすれば年を取っても、楽しい思い出の中に生きて行けると.。ただし楽しい道を歩み続けるには、それなりの努力が必要であることは言うまでもない。

 4年前の11月早朝、私は倒れ病院に搬送された。自分の意志で片目をつぶることが出来ない。言葉を発しようにもろれつが回らない。ダメかと思った。涙があふれた。幸いにもダメージは軽く、事なきを得たが、いろいろ考えさせられた経験だった。

 私は悟ったわけではないけれど、こう考える。人生は冒険をして後悔するか、冒険をしないで後悔するかだと。だから最近は、けっこう言いたいこと言って、やりたいことをやっている。

 私は毎日毎日を、人生最後の1日だと思い過ごしている。

 このブログもそうだ。半分は冗談だが、遺書のつもりで書いている。遺書も80回近く書いてきた。500回でとぎれるかも知れない。3000回まで続くかも知れない。

 人がどう思うかは別として、結構必死で書いている(塾生はストレス解消ブログと呼んでいるが・・笑い)。みかみ塾の本田先生のように、多忙にもかかわらず、私の文章を全文自分のブログで紹介してくださる方もいる。わざわざ感動したと言って、電話をくださる方もいる。また手厳しい批評のコメントを頂くことも多い。

 昨日塾生が、「先生いつまで塾を続けるの」と聞いてきた。「倒れて、こと切れるまでだ」。これが私の答えだ。

 私に宮沢賢治文学を伝授して頂いた詩人の小菅先生は、54歳の若さで他界された。ちなみに私の父は55歳でこの世を去った。文豪夏目漱石は私の年齢で亡くなっている。死というものがリアルに感じられる年齢になってきたことに間違いない。

 毎年正月の元旦に初詣でをする。私はいつもこう祈る。今年もこども達のために、まだまだお役目があるのならば、どうぞ生かして下さい。そうでなければ、神のもとへ召して下さいと。

 体調もよくなり、卓球の試合にもバリバリ出られるようになったところを見ると、まだまだお役目はあるのかと、神様に感謝するこの頃である。

2008年1月27日 (日)

一関一高附属中学校併設への私見パート2

 先週、私立高校の推薦組の塾生が全員合格を勝ち取り、今日は一関高専の推薦組が3倍の難関を乗り切り全員合格の朗報を頂いた。こんな日は実に気持ちがいい。

 さて一関一高附属中学校入試のための保護者説明会が、県内各地で来週から始まる。当セミナーの、一関中学校関連の固定リンクへのアクセスが日ごとに急増している。保護者の皆様から多くのご意見を頂いた。今後の指導に役立てたいと考えている。また貴重な時間を割いて頂き、アクセスして頂いていることに心より感謝を述べたい。

 実は私自身、保護者の皆さんの関心の高さに、正直驚いている。私どもに寄せられたご意見を幾つか紹介したいと思う。

 『都会と地方の経済格差や、文化的格差は、教育の格差に大きく起因しているのではないか。今回の附属中学に期待する。』

 『何が附属中学だ。英才教育をする暇があるなら、底辺のこども達の学力向上に教育機関はもっとエネルギーを注ぐべきだ。』

『学歴がないばかりに、派遣社員での仕事しかない。東京の本社からきた若造にあごで使われる。地方の教育の底上げが必要だ。』

 『意識が高い親たちが、こども達に付属中学校を受けさせることによって、高学歴をめざす意識の改革を地方にも定着させるべきだ。』

 私は、教育の質を高めることは、当然大切なことだと思う。問題点は、素晴らしい潜在能力を持ちながら、劣悪な環境の中で埋もれてしまい、教育のチャンスを与えられない子友達がいることだと思う。

 今度の一関一高附属中学校の設立が、教育レベルの底上げになることは間違いないだろう。しかし教育の格差が今以上に広がってしまうことも想像される。

  チャンスは平等に与えられなければならない。私どもの塾が、最大の企業努力で低料金を維持してきているのも、そう言った理念からである。

 昨日、小学校のお子さんが二人いる営業マンの方が、私の塾を訪れた。波長があって、1時間近く立ち話をした。その方は一高のOBなのだが、息子が仮に附属に入れたにしても、授業に付いていけるんだろうかと、不安を話しておられた。

 その方とも話したことなのだが、進学校に行って伸びなくなってしまう生徒が増えていると聞く。我々塾のあり方にもその責任の一因がある。

 地元の進学校に親が希望し、本人も希望する。しかし成績が伴わない。表現は悪いが、お金と手間暇さえかけてくれれば、我々は合格に導ける。塾業界に長くおられる先生方ならば、みんな知っているテクニックだ。入試に出ないところはやらせない。膨大の量の過去問を分析し、頻度の高い問題の演習を徹底して繰り返させる。

 例えば県内の公立入試に置いては、国語の問題で、品詞名を問う問題は出ない。形容詞や形容動詞、連体詞等の区別が出来ればよい。理科では、体、動物の範囲で、消化器官や肺循環等の内容は必修だ。しかし、動物の分類は出ない。ちなみに植物の分類もほとんど出た試しがない。

 書き続ければ、レポート用紙数十枚の合格マニュアル本になってしまい、生徒が塾に入って来なくなるのでやめておくが(・・・笑い),点数だけどうしても取らせなければならないとなると、残り少ない時間の中で選択すべき指導方法は、おのずと決まってくる。

 生徒の学力を伸ばすのではなく、得点能力を伸ばしてしまう。結果高校に入って授業についていけない。たとえて言うならば、ゴムが伸びきった状態で高校に入れられ、遊びがないまま高校生活に突入してしまう。これでは伸びようがない。

 保護者の皆さんより私が若かった頃、上記のことがなかなか勇気がなくて言えなっかた。近年はバリバリ言っている。言い過ぎるものだから時として反感も買う。

 明日一関一高附属中学校入試説明会に出席して来る。それを聞いてきてから、この続きをまたしたためたい。  (つづく)

にほんブログ村 教育ブログへ

2008年1月25日 (金)

翻訳料は鯛焼き君

 落ちこぼれていた。確かな自分の未来どころか、明日さえも見えなかった。

 高校に退学届けを持っていった。冷静に今振り返ってみると、幸いだったかも知れないが、見事にはねつけられた。それも二度も。今度は辞めることが面倒くさくなった。高一の暑い夏が終わろうとしていた。

 その頃、稲田耕三の『高校放浪記』を愛読していた。それと、,たまたま古本屋で見つけた岩波文庫、マルクスの『資本論』全12巻を購入し、睡眠薬代わりに枕元に置いていた。

 授業を抜け出し、城跡の公園で、マルクスの資本論を片手に寝転がった。きっと啄木を気取ったつもりだったのかも知れない。しかし彼のような才覚は、私にはなかった。

 プロパガンダを気取り、詩のようなものを書き、音楽に没頭した。小遣いを稼ぐために、よくゴルフ場に行き、キャディーのバイトをした。常連客は、会社の社長さんや、お医者さんだった。大きな声で褒めちぎった、「ナイスショット!」「ナイスショット!」。

 その見返りとして結構なチップを頂いた。バイト代は、ほとんどが本代やレコード代、そして楽器に消えていった。

 我が教室に、むかしの私を彷彿させるような生徒がたまにやって来る。においとでも言うのだろうか、学校で荒れくれているはずのそいつがやけになついてくる。

ひげ面の人相の悪い塾教師だからびびっているのかも知れないが、慣れない敬語などを使う。「先生、父ちゃんが言ってたんですけど、先生は学校時代裏バンはっていらしゃっていたんですか」 「そのいらしゃったは、使い方がおかしいよ、て言うか、おまえの父ちゃんの名前なんて言うんだ」。

 悪ガキ仲間だった連中の息子が、ひょっこり入って来ることもある。息子を迎えに来ながら、「おう元気か、俺に似てこの通りの息子だけどよ、よろしくな、今度飲もうや」などと言って去って行く。

 子の親ともなれば、悪ガキ連中もひとかどの教育論をぶち上げる。息子らに、私のことをどう話しているのか知らないが、息子達は私の前ではやたらとおとなしい。

 悪ガキ連中だった仲間の一人が、昨年のクリスマス前、塾にひょっこり現れた。息子の相談かと思いきや、「行きつけの店のママさ、日本語いまいちなんだよね、英語はOKらしいのよ、クリスマスプレゼントにちょっこらメッセージを添えたいんだけどさ、これを英語にしてくれ・・・・金田先生」などと言って、鯛焼きをぶら下げてやって来る。

 と言うことで、昨年のあの鯛焼きは、私の翻訳料なのである。あしからず。

2008年1月24日 (木)

文体が変わると・・・

 お気づきの方もおられると思うが、今年に入ってブログの文体を変えた。

 高校生の論文指導をしていていつも実感する事だが、文体を変えると、脳の中の文章の引き出しが変わり、内容も一変する。

 女子高校生など特にそうだが、私がかってに名付けているところの「ケータイ文体」~なんだけど的文体を、~である的文体に指導し変えると、姿勢まで変わる。言葉は悪いが、だらっとしていた背筋がピーンとなる。

 言葉もそうであるが、日常書く文体によって姿勢まで変わるとは、恐るべき文体影響。

 昨日、学び舎の小林先生と電話でブログ談義をさせて頂いたが、文章を書くと言うことは、実は自分との対話なのだと思う。だから新しい発見が生まれるのだと思う。

 申し遅れたが、小林先生は私の友人であり、塾業界の先輩である。現在『陸奥話記』の現代語訳を執筆中で、いずれ世に出ると思う。楽しみである。

 私のブログに、学び舎のブログがリンクしてあるので、塾生のみなさんアクセスしてみて欲しい。とくに論文を必要とする高校生は、小林先生の文章を参考にしてもらいたい。

 冷静沈着に自分の論点を相手に伝える文章力は、まさに職人技である。

2008年1月23日 (水)

一瞬の青春譜

足早に過ぎ去っていく、放課後の学生達の群集。凍てつく道は雪の轍が残り、午後の冬の日差しにやわらかく照り輝いている。

自販機の前で、物憂げに100円硬貨をさがしている男子生徒。手袋がじゃまのようだ。子犬のように手袋を口にくわえ、コインを入れようとしている。

自転車の荷台に彼女を乗せて、友達らしい男子生徒が彼の横を通り過ぎる。片手を会釈代わりに上げ、何か言葉を交わす。二言三言。

彼は買うことを止め、自転車を目で追い、そして歩き去っていった。私は自動車のキーをポッケットにしまい込み、駐車場から教室に向かった。

一年一年、当たり前のことだが年を取っていく。高校生や中学生の集団とすれ違ったときの、あのとまどうばかりのエネルギーの放射に私は圧倒される。

彼らの存在が、自分も経てきた時間が故に、その眩しさが戸惑いになるのかも知れない。

例えば、駅の階段を駆け抜けていく学生達のその勢いに、涙ぐんでしまうことがある。もう自分にはない空間に、彼らが生きていることのジェラシーと、自分の若さの喪失感をおのれが知ってしまうせつなさだろうか。

若さは、一瞬のきらめきを放つ故に尊いのではなく、限りない可能性を放射する原石だからいとおしいのだと思う。

約束したにもかかわらず、ほったらかしにしてきた多くの青春の残骸を、年を取るにしたがい、忘れたふりをする。しかしその偽りの忘却をなじるかのように、若者達は私の前を通り過ぎるのだ。

いつかみた夢の続きを、誰かに託したいと思うとき、何故もう自分じゃないのかと、また自らに問いかける。情けない年寄りの反抗と知りつつも、どこかに救いを求めている。

冬枯れた街にも、確実に一歩一歩春が近づいている。教室のそばの桜並木も、かたい蕾をしっかり付け、寒さに耐えつつ春を待っている。

誰かが言っていた。あと人生で何度桜の花を見られるだろう。未来永劫、季節は移り行く。我々はその中の一瞬の命だ。だから若きも老いも関係ない。同じ一瞬だ。

私は自分に言い聞かせ、教室で若者達と対峙する。ハンディー無しの真剣勝負だと、今日もまたペンを握る。

2008年1月21日 (月)

女性の感性

 塾を始めた若い頃、よく○○塾連合会経営セミナーとか、○○塾協会「時代を生き抜く△△セミナー」等々のダイレクトメールが舞い込んできた。生徒もおらず暇だったものだから、幾つか出掛けていって拝聴した。

 ほとんどの講演会は、どこかの有名塾の先生をお呼びし、「いかに我が塾は成功したか」みたいな話の内容だった。正直言って、新幹線代がもったいなかったなーと思う講演会が多かったような気がする。

 しかし時として、現在の私に役立っている話もある。大阪の塾経営者の講演会だった記憶があるが、「困った時は奥さんに聞いてみて下さい、女性の感は素晴らしい」みたいなフレーズを述べられていて、心の片隅に残る言葉だった。

 その影響があったのかも知れないが、選択に迷いが出たときは家内に意見を求めることにしている。身近ではこのブログだ。

 我がセミナーでは、便宜上我が家内が社長で、私が校長という役職になっている。従って講師の先生も家内を社長と呼ぶのだが、塾生達の反応がおもしろい。

 実力テストなどの試験監督をたまに家内に頼むのだが、生徒達は私の時よりやけに静からしい。あとで子ども達に聞いてみると「昨日のテスト、社長が試験監督に来たよ」などと言っている。校長より社長の方がこわいと思っているらしい。

 ちょっと脱線した。話を元に戻そう。

 私はこのブログを公開する前に、ほぼ必ず家内に検閲をしてもらう。(・・・笑い)すると、生徒の母親としての意見を聞くことができる。「私が生徒のお母さんだったらここの文章やだな」みたいな意見がズバッとくる。「なるほど~」と私は手直しする。

 女性の感性は大切だな~と実感する。

 また塾のチラシの時もそうだ。私が「A社に頼みたいけどどうだろう」すると「あそこはダメ、デスクが汚すぎる、運気がない」とまたズバッとくる。

 これまでやって来れたのも、家内あっての功績だと・・・・思う。今日はこのブログ一発で検閲をパスするだろうか・・・・・(笑い)

2008年1月20日 (日)

どーんと伸びる

 子どもが伸びる時はちょっとじゃなくて、どーんと伸びる。

 「うちの子どもお陰様で少し伸びてきました」というコメントを親御さんから頂くが、残念ながらそれはまだ伸びていない。成績はどーんと上がるものだ。ちょっと上がるだけなら塾の効用はない。

 私は生徒は成績が上がって当然だと思い指導している。それはおごり高ぶってそう思うのではなく、水が高き所から低きに流れるがごとく、そう確信している。そしてそう確信しているから塾を止めずに続けている。

 「俺の教え方でいいのかな~」そんな気持ちで生徒と接していたら塾教師はOUTだ。この子は縁あってうちの塾に来てくれた。A塾でもなくB塾でもなく、うちの塾に来てくれたのは、この子が伸びるためなのだ。だから頑張る。

 1ヶ月で結果が出る生徒がいる。1年で結果が出る生徒がいる。3年かかってどか~んとくる生徒もいる。

 虚弱体質の子どもを丈夫にしようとして、いきなり毎日5キロのロードランをさせたら、即倒れてしまうだろう。まずはウオーキングからゆっくり始めなければならない。

 逆に筋骨りゅうりゅうの若者なら、実践に即したハードトレーニングが即OKだろう。理にかなった指導ならば、いっきに記録は伸びるはずだ。

 勉強も同じだと思う。

2008年1月18日 (金)

塾コンサルタント?

 入塾相談とはまったく関係ない、身の上相談のような電話を年に何本か頂く。結構多いのが「私も先生のような塾をやりたいんですが・・・・」という経営コンサルタント的相談内容だ。

 私はいつもこう答える、「やめなさい」。

 少し前も、中学校の先生をやっているという27歳の若者が電話をくれた。「学校で自分の思うようなスタンスで生徒の指導ができないので、教師を辞めて塾をやりたいと思っています」と、私は躊躇なく、「先生を続けなさい。頑張りなさい」と言って電話を切った。

 塾をやっていると、家族とご飯を食べることはまずない。夜は11時過ぎに食べるので、ほとんどの塾経営者はメタボになって、不健康この上ない。

 学校の先生と違って、毎年受験指導。1月、2月は胃薬が手放せない。年によっては理由もなく生徒が増えたり、ぜんぜん来なかったり。お金を借りたくても、こんな不安定な職業に銀行は一文も貸してくれない。

 塾を立ち上げて19年目に入るが、当時から市内で続いている塾は大手を含めたった4軒。7軒ほどの塾がこの間に姿を消し、現在新たに10軒ほどの塾が参入している。

 塾で一儲けなどと考えているなら、まずは手を出さないのが一番だ。私の知る限り、地方のほとんどの塾経営者は昼働いている。パートをやったり、農業をやったり、高校の非常勤をやったりだ。 

 じゃ何故続けているのか。たぶんみんな塾が好きなんだと思う。こども達に教えることが好きなんだと思う。少なくとも、それが私にとっても塾をやってこれた一番の理由だ。

 私のこのブログを読んで下さっている塾の先生方も最近は多くいらっしゃる。コメントも頂く。また塾をやってみたいと考えている方も、いろんな塾ブログをご覧になっていることと思う。

 前々回のブログでも書いたが、品格のない世の中になってきた。例えば塾をやって来て、10年くらい前までは決してなかったことで、最近増えていること。

 月謝を滞納したまま平気で塾を辞めていく家。教育の相談で私の所に来ているのに、謝るでもなく、大きな声で携帯で話をしている親。1年以上塾に子供を通わせ、送り迎えに来ているのに一度も顔を出さず、あいさつ1つない親。従ってその塾生の親の顔を私も知らない。

 もちろんそんな親たちの子供の成績がいいはずもない。そしてクレームだけ多い。しかし、それでも私どもはこども達のためにベストを尽くす。5000円や7000円の月謝で、人格全ての面倒を見て欲しいと言われれば、ぜんぜん割に合わない仕事かも知れない。しかしである。それでもこどもを何とかしなければと、日々胃薬とウコンを飲み、「やってやろうじゃないか」と、誰にでもなくつぶやくのである。

 きっと他の塾の先生方も同じではないだろうか。入試もいよいよ最終章。先生方、我ら同士よ! 頑張って行こうではないか!

 

2008年1月16日 (水)

小菅敏夫先生の思いで

 私の恩師である小菅敏夫先生からは、実に多くのことを学ばさせて頂いた。敬虔なクリスチャンであり、また先生の詩は何度も芸術祭で賞を受けるなど、卓越した言葉の感性をお持ちの先生だった。

 1990年に54歳という若さで天に召されてしまったが、小学生の多感な時期に、先生と多くの時間を共有できたことを感謝している。

 実は多くの宮沢賢治の作品を紹介して下さったのが、小菅先生であった。小学3年から4年まで担任をして頂いたのだが、演劇発表会で演じる作品はすべて賢治作品という徹底ぶりだった。『どんぐりと山猫』『注文の多い料理店』 『よだかの星』 『雪わたり』どれもこれも先生の脚本と演出で演じたものばかりだ。

 特に『どんぐりと山猫』の主人公のいちろうは、私と名字が同じだということで、即私が主人公に抜擢され、一生懸命台詞を覚えたのを今でも覚えている。

 大学を出たあと、私もまがりなりにも先生と呼ばれる職に就き、教育のこと等で悩みが多かった時期、何度か先生に連絡を取ろうとしたものの、忙しさにかまけて叶わないままだった。そんなおり先生の訃報を聞き、本当に残念でならなかった。

 私の手元に今、平成三年に岩手日日新聞社から発行された『小菅敏夫詩集』がある。私が中学生の時先生から頂いた年賀状に、北上連邦で始まる詩がつづられており、先生の詩の中で一番私が好きになった詩である。ここに紹介したいと思う。

         北風の叫び

 北上連邦の果てにつづく山襞に

 きらきらと光る瞳があるかぎり

 涙は生きるものの上にいつまでも

 注がれるのを知っている

 

 なんと寒い雪の日の夕暮なのだろう

 森の中に目覚める数々の仕事は

 せせらぎのように

 雪道に吹きだまりをつくる 

 もし存命しておられれば、先生は今年72歳を迎えられていたはずです。賢治の詩や童話に対する思いや、教育についてぜひ拝聴したかったと思うこの頃です。

2008年1月14日 (月)

God Bless You

アメリカの憲法の中に「God has created all men equal.」神様は全ての人間を平等に創造した、というフレーズがある。

 キリスト教主義の国家であるアメリカが、常に聖書の中の神を政治に持ち出し、美辞麗句を打ち出す政治手法は、個人的には好きではない。

 1960年代、私にとってアメリカはまさに憧れのドリーム国家だった。テレビから流れるアメリカの映像は、豊かさの象徴だった。

 しかし、そんな繁栄の中でケネディが暗殺され、ベトナム戦争が泥沼化していく中、私のアメリカは変わっていった。人種差別、ヒッピー文化、ドラッグの蔓延、平和と平等を旗印に世界のトップを走り続けるアメリカは、大切な何かを失い迷走していった。

 私が子供の頃に憧れたアメリカ。あの憧憬の本質を自分で確かめたく、私はアメリカ文学を大学で学んだ。キリスト教学や聖書学を学んで行く中で、世界のありようが、人間の欲望の放出で構築されてきた事実を知った。

 「神の存在価値」や「人類のたどる行く末」などのキーワードを本の帯に見いだし、本を読みあさっていく中、何度も過ちを繰り返す人類を、もう神は見捨ててしまったのではないかと、青二才の若造である私は思ったものだ。

 黒人のジャズに傾倒し、クリスチャンでもない私が半分英会話目的であったにせよ、アメリカ人が多く来る日曜の教会に通い、いわばアメリカに媚びていったのは、アメリカナイズされていく自分の失態を、自虐的に楽しんでいるもう一人の自分がいたからのような気がする。

 塾の仕事をしていると、教え子からアメリカに留学したいという相談をたまに受ける。「ぜひ行って見て、アメリカを確かめて欲しい」と私はいつも言う。ひょっとしたら思いの外感動するかも知れない。幻滅するかも知れない。

 「外国に行って日本の良さを知る」などという陳腐な言葉を述べるまでもないが、東京の街の風景も、ニューヨークの街の風景も、そして香港の風景も、それほどの違いがあるようには思えない。世界の風景が均一化してきている。

 19年前塾を開校したときに、友人のキリスト教伝道師のアメリカ人から、記念にと何枚かのアメリカの記念硬貨をもらった。God  bless  you と刻印されたアメリカの硬貨に何か不釣り合いな違和感を覚えた。

 私の愛する宮沢賢治が、もし現在のアメリカ社会、そしてアメリカナイズされた日本社会を見たならば、神に祝福された世の中だと思うだろうか。生きていくことの本質的欲望と快楽的欲望を混同し、品格を失った人々を見て彼は何を思うだろう。

2008年1月13日 (日)

シャム猫のキラリン

 昨年の12月、我が家に家族が増えた。と言ってもシャム猫のキラリンである。

 二軒先の家よりかってに引っ越してきて、住みついてしまった。一見タヌキに見えるその風貌は決してかわいいとは言えないが、人なつっこさが幸いして、家族の一員としてのポジションを見事確立してしまった。

 我が家にはボブという名の12歳の老犬がいるが、息子達にとっては猫を飼うのは初めての経験で、最初は扱いにとまどっていたようだが、気まぐれな猫の性格をキャッチし始め、今は仲良く暮らしている。

 私にとっても猫を飼うのは30年ぶりぐらいで、なんかいい感じで癒されている。ペットには人を癒す不思議な力があるものだと実感する。

 ちなみに塾では、さすがにペットは飼えない。二階に行く階段のおどりばに、一匹の犬が鎮座している。もちろん置物だが、ちょっとリアルで、入塾してくる10人にひとりは、本物だと思いびっくりするそうだ。

 今日も中3のA君が、「塾に初めて来たときびっくりした、本物の犬かと思った」と言っていたのだが、実はこの犬、私のブログのURLの看板をさげている、ブログ看板犬なのである。

 クリスマスの時は赤い帽子をかぶせられ、節分の時は鬼の仮面をかぶっている。私が塾に行くと、かってに玄関に出され、日向ぼっこをしていることもある。

 置物のペットでもこうなのだから、やっぱり本物はすごい。

2008年1月12日 (土)

あれは5年前・・・

 あれは5年前のこと、私が外のトイレから教室に入ろうとすると、中学生の女の子が2人パタパタと走ってきました。「ここだよ○○ちゃんが来てる塾」「個別だけど安いんだってよ~」 「え~でもボロじゃん」 「こんな所来たくな~い」 「そうだよね~」

 2人は外に置いてあるパンフレットを取るでもなく、すぐさま帰って行きました。私はぼーぜんと佇んでしまいました。(笑い・・・・)

 そう言うわけで、大家さんの好意におんぶにだっこで、塾を建て替えることになり、4年前、新校舎が完成したわけです。このブログのプロフィールをクリックして頂けると、塾の写真が載っています。

 去年しばらくぶりに来てくれた卒業生が「建物変わっていたから、塾つぶれたのかな~て心配しちゃった」と言っていましたので、今日は塾はつぶれていないというお話でした。

 それからもう一つ、正月の年賀状に、塾でもライブをして欲しいとの塾生のたっての要望がありましたので、冬期講習の最終日、夕方3曲だけのミニライブをゲリラ的に敢行しました。「カブトムシ」 「ぼくの夢」 「卒業青春」の3曲です。

 こども達の反応は「先生ストリートミュージシャンしてたの」 「挫折して塾の先生になったの」 「髪が薄いからあきらめたの」 「顔がダメだったの」 「・・太っていたから」・・・・・・・・・うううっぐうぐぐうう・

2008年1月11日 (金)

選択は力だ

 昨年の暮れに、20年来使ってきたワープロが天寿をまっとうした。パナソニックのワープロだが、部品もすでに製造されておらず、残念ながら打ちなれたキーボードともお別れである。

 ワープロと言えば、ワープロソフトwardを開発したチャード・ブロディ氏のGetting Past Okを最近読んだのだが、ビル・ゲイッも賞賛する人物だけに、含蓄のある言葉を発する現代の啓蒙家である。

 「未来は、自分の創造力と力量しだいで、どのようにも選択できる」 「選択は力だ」ゆるぎない彼の信念が伝わってくる。

 人生に置いて呼び寄せるさまざまな出来事は、自分が招き入れているのだと彼は書いているが、確かに日々の口癖だったり、習慣性であったり、思考パターンであったり、個人のエネルギーにふさわしい事象を、我々は呼び寄せ現実化してしまっているような気がする。

そうなれば受験勉強もしかりである。合格を引き寄せるためには、自分を信じ、ポジティブ思考で未来を構築すべきである。

 そんな助けになるぴったりの受験生ソングのCDを、山口県のみかみ塾の本田先生から昨年の暮れ頂いた。「伝えておきたいこと」という曲で、本田先生のオリジナルである。

 自習室に置いておくので、希望者は聞いてみてくれ。また「Mr.Hondaのココロ・トーク」で検索すると、彼のブログと曲を聞くことができる。

追伸・・・・・冬期特訓も終わり、今日から通常ゼミが始まりました。学校が始まると同時に   雪の日々になってしまいました。気をつけて登校して下さい。

2008年1月 7日 (月)

天国のT君のお母さんへ

 T君のお母さん、天国に旅立って15年の歳月が過ぎましたね。T君は今私の塾で、高校入試に向けて、最後のがんばりを見せています。冬期講習も毎日頑張っています。

 T君が生まれてすぐ天国に行かれてしまったので、子供達のことがとても心配だったことでしょう。でもだいじょうぶです。勉強もでき、すばらしい友達に恵まれ、本当に明るく元気にがんばっています。お父さんとまわりの人達の愛情と、教育への尽力のたまものだと思います。

 T君のサッカーでのがんばりは、天国からご覧になったと思いますが、すごかったですよ。そうそう、私もこうやってブログを始めましたが、ご主人も会社のホームページでブログを立ち上げました。すてきなブログで、私もちょくちょく読ませて頂いています。

 昨年は、甥ごさんも塾に来てくれました。縁あって、みんなサッカー部で頑張っています。

 お兄ちゃんもうちの息子と同い年で、高校も卒業ですね。小さい頃はよく一緒に遊んでおりましたが、3年前塾で顔を合わせたときに、「小さい頃遊んだのを覚えているか」と息子に聞いたところ、全く覚えてなくて、困ったものです・・・・

 中学1年の時から早3年。たくましく成長しました。本当にいろいろな思い出がいっぱいです。あとちょっとで、指導も終わりです。きっとすてきな青年になっていくと思います。

 私の横で一生懸命勉強しているT君を見ていて、天国のT君のお母さんに手紙を書きたくなりました。どうか安心して合格を見守っていてあげて下さい。

2008年1月 5日 (土)

沈黙のシナプス

 人は育った家庭のメンバーの気質によって、性格や感情が形作られていきます。父親や母親のコンディションは変遷します。

 長男や長女が生まれたときの家族構成や経済力は、末の子が生まれたときと違うはずです。その時々の家庭の醸し出す雰囲気が、こどもの気質を作っていきます。

 例えば、何気ない親の口癖や、習慣、そして健康状態までが確実にこどもに影響を与えます。自分のこどもを育ててきてもそれを実感しますし、また塾で多くの兄弟、姉妹を教えてきて、なるほどな~と教えられることが多々あります。

 塾生がよく話題にしてくることで、「頭の良さは遺伝するのかな」という質問が多いですが、はっきり言って私にも分かりません。何をもってして頭がいいと言うのかも曖昧ですが、勉強の習慣性や集中力などは、確かに親に似ると思います。

 食事のあと、だらだらとテレビを見続ける家庭と、父親が本を読んだり、お母さんが家計簿を出してきてつけたりする家庭では、やはりこども達の日常性は違って来るでしょうね。

 全てのこども達は、完璧な頭脳を持って生まれてきます。人間の脳細胞は40億~50億個と言われていますが、そのうち人間が死ぬまでに使う脳細胞は、せいぜい1億個だと言われています。

 大部分の脳細胞は、使われずに生涯を終えていきます。脳細胞のシナプスが、連絡網を絶たれたまま、つまりは49億の回線が未使用のまま破棄されるわけです。

 沈黙のシナプスが、反乱を起こさぬよう、我々人間は一歩一歩自らの脳を開拓していかなければならない運命なのだと、ちょっと正月ぼけの私は思うのでした。

2008年1月 3日 (木)

カブトムシ

 僕が飼っていたカブトムシ

 ある日動かなくなっていた

 お医者さんに診てもらいたいけど

 僕の貯金箱には30円

 肩たたき券を10枚作って

 パパとママに買ってもらったけど

 130円でカブトムシ治してもらえるかな

 暑い暑い夏休み

 一生懸命さがしたカブトムシ

 町のデパートで買ったんじゃない

 僕が見つけたカブトムシ

 残念ながらカブトムシ

 天国にいちゃった

 そのかわりカブトムシのおうちには

 めすのカマキリ飼っている

 めすのカマキリさんひとりじゃ寂しいだろうと

 おすのカマキリさん入れてあげた

 次の朝おすのカマキリさん消えてしまっていた

 どうしてなんだとパパに聞いたら

 女は強いと一言

 あとで知ったことだけど

 めすのカマキリはおすを食べちゃう

 4年前に私が作詞作曲した名曲〔迷曲?〕カブトムシです。小学校などのミニライブで一番好評なんですが、なんとコード進行が『千の風になって』とまったく同じなんですね。

 本当にびっくりです。塾生の皆さんにも気に入ってもらい、「うちの学校でもライブをやって」とラブコールを頂くのですが、中学校でのライブはまだ諸処の事情で実現していません。

 さて明日から通常ゼミが始まります。ファイト!

 

2008年1月 2日 (水)

宮沢賢治

 子供の頃絵を描くときに、いつも風景の片隅に電信柱を描く癖があった。今振り返ってみると、自然の中に感じた違和感を、こどもながらに無意識に表現したかったのかも知れない。    

 もう一つ思い当たる原因として、小さい頃目にした宮沢賢治のスケッチの中に、ディフォルメされた電信柱を見たことがあって、その残像が私の記憶を無意識に刺激し、電信柱を描いていたのかも知れない。

 ・・・・宮沢賢治、実は彼を論じ始めたら、今年の半年分のブログが埋まるだろうと思うぐらい、私の賢治への思い入れは深い。

 私の体の中に、もし感性という名の細胞があるとするならば、100%の細胞が賢治の作品と思想の影響を受けていると言っても過言ではないだろう。

 ブログを始めた時から、彼を論じたいという欲求は常にあったのだが、思いばかりが先走り、なかなか言葉が立ち上がらなかった。

 賢治を評価するときに、様々なアプローチがある。童話作家として、宗教家として、あるいは教師として、農業技術指導者として、・・・・私にとって宮沢賢治とは、魂の言葉を綴りおりなす吟遊詩人そのものである。

 彼の詩「永訣の朝」は、私の人生を完璧に変えてしまった作品だ。高校生だった私は、まさしく脳天をかち割られた衝撃を受けたのを覚えている。一文字一文字の言葉の連なりが、これほどまでに人間の心をゆさぶるのかと、言葉の力をまのあたりにした一瞬だった。

 その日から、図々しくも私は詩人になってしまった。彼の詩に出逢わなければ、詩や曲を作ることも私の人生に置いてなかっただろうし、こうやって塾教師をやっていることもなかっただろうと思う。

37歳という若さで時代を駆け抜けていった天才詩人。どれほどの人達が彼の影響を今も受け続けていることだろう。

「たった一人の人間も救えない奴に、世界がどうだ、世の中がどうだと言う資格はない」賢治が作品を通じて、いつも私に語りかけてくる言葉である。

2008年1月 1日 (火)

WELCOME TO 2008

新年あけましておめでとうございます。大験セミナーわくわく日記をいつも読んで頂き、心より感謝申し上げます。

 今年2008年は、私にとっても塾教師となり、25年目となる節目の年を迎えます。4分の1世紀、長かったような気もしますし、あっという間の25年だったような気もします。

 現在の塾を開校し、19年目に突入するわけですが、400名あまりの塾生が当塾を巣立っていきました。様々な出逢いと別れを繰り返し、思い出多き1年1年が過ぎて行ったように思います。

 こども達と笑い、時に泣き、時に怒り、本当に筋書き無きドラマの連続でした。そして今年もまた、新たな伝説や物語が生まれて行くのだろうと思います。ブログのタイトルではありませんが、本当にわくわくドキドキの毎日です。

 1月4日から冬期特訓の後半が始まります。塾生には正月休みの宿題として、英語の60例文の暗記が課せられています。きっと頑張っていることでしょう。ある時は200問漢字テスト、またある時は2次関数の面積問題が襲いかかるという、矢継ぎ早の暗記テストにへとへとになっていると思いますが、正月料理を食べ,英気を養い、後半戦を戦い抜いてください。

 話は変わります。昨年の12月に入り、東京、神奈川、そして山口県の方のブログへのアクセスが急増しております。私が3日に一度の更新にもかかわらず、毎日アクセスして下さる方もいらっしゃいます。ほんとうにありがたいことです。

 私も人間ですので(塾生は宇宙人と呼んでいますが)塾生等の問題で、ブルーになる日もあります。おのずとブログの中身も重くなったり軽くなったりします。あとで読み返して、何だこりゃ~的な文も多くあるわけですが、一度発信した内容にはやはり責任は持たねばと、消去することなく、勇気を振り絞り書き綴っております。

 そんなわけで、どうぞ今年もこのブログにおつき合い下さいますようよろしくお願いいたします。   2008  元旦

 

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »