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2007年12月29日 (土)

一枚の写真

 一枚の写真がある。原爆が落とされた広島の街角に立っている8歳ぐらいの男の子の写真だ。少年はしっかりとおんぶ紐でくくられた、彼の弟と思われる赤ん坊を背負っている。

 しかしその赤ん坊には命の気配がない。まわりに遺体を運んでいる人々が写っているので、彼はきっと自分の弟を遺体焼却場に運んで行こうとしているのだろう。

 彼が一人で来ているということは、父も母もそして家族全てを原爆で失ってしまったのだろう。私はその写真をまのあたりにして、一時間ほど泣いた。

 その写真を偶然見たとき、私は塾をやることに行き詰まっていた。やめることも考えていた。しかし、人間が生きるとはどういうことかを、教育の中で実践せねばと、私は慟哭の中で自分に誓った。

 私は決してこのような話を教室ではしない。「先生暗いよ」と言われるからではなく、究極の悲惨さは、学びの教材として好ましいと思わないからだ。

 例えば、「ほたるの墓」も「アンネの日記」も、今後読み継がれていく戦争作品であると思う。しかし大人が感動したからと言って、子供に勧めるべき作品かというと、一概にそうとも思えない。事実を学ぶにはそれぞれのタイミングと時期がある。

 こども達に、人間の負の歴史を教えることの大切さを説く大人は多い。そして歴史の教科書は、戦争史のオンパレードだ。

 戦争の年代や中身を覚えさえすれば、歴史の点数が採れると言っても過言ではない。

 戦争を繰り返す人間の愚かさを、もしこども達に教えたいのであれば、イランイラク戦争のドキュメンタリー番組を一本見せれば済むことだろう。

 南北戦争やベトナム戦争を学んだはずのアメリカが戦争をやめただろうか。答えはNOだ。教育のカテゴリーは結局時代や国家が選択し、管理していくことになる。

 こども達に、受験のために暗記させる項目をスクロールしていて、私はめまいを覚えた。写真一枚で伝わることを、なぜ言葉でこれほどまでに呪縛(じゅばく)してしまっているのだろうと。

 本来こども達の感性(魂と言ってもいいかもしれない)に訴えるべき事柄を、表面的な学問にしてしまい、受験の暗記項目にしてしまうことは、何か大切なものが冒涜されているような気がするのは私だけだろうか。

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